根石さん 村田さん
投稿者:江戸の母 投稿日:2009年 8月 2日(日)01時22分18秒
今日はレッスンありがとうございました。
母、初の自分のレッスン。どきどきでした。

振込みとジープの件、了解です^^
母の分の振込みは子供たちのレッスンと同じ日に月初めめやすに、一緒に振り込みます。
よろしくお願いします。

足長蜂の住むジープも了解です。注意いたします。
こちら・・・なかなか石を積んだり、投げたりもなかなか難しい状況なので、子供たちをつれて
いったらやはり河川にほうっておいたら数時間は遊んでると思いますが、落ちたら怖いですね。まだまだ注意が必要です。

初回レッスンの感想ですが、忘れないうちに。
テキストの読み方に慣れなくて、どこやってるんだろう〜〜とオロオロしてしまいました。
でも、だいぶ慣れてきました。レッスン前は子供たちみたく全文読むのかななんて、思ってました(汗)それにしても、全然バリバリ日本人発音の英語でお 恥ずかしい(汗汗)なおしがいのある生徒ということで自信を持ちます(><)

今日のレッスンの最後の文章で、自分の中で区切り方が、「あっ」って感じで落ちてきた気がしました。それまでも〜〜〜無我夢中で^^ 『テキストに隠され た工夫』ちょっと垣間見た気がしました。次回はなんか録音手段を考えておきます。

ちなみに、レッスンの先輩である息子のコメントは「ママ、怒られた?」と「何行目やってるの?」デシタ
いや、別に起こられては無いよ^^ あと、同じテキストじゃないからさ・・・
そして子供たちと布団でお経のように「incredible」を唱えながら、眠りましたzzz

村田さんの声が、まるでスーツ姿のようで別人のようでした!(これは後で削除します・・・)

ところで8月1日付けの朝日新聞朝刊15面に斉藤兆史(よしふみ)のインタビューが載っていました。「学校で「使える英語」なんて幻想だ」中学・高校で教 えるべきは文法と訳読。明治以来、基本は同じ。というタイトルで「会話中心の英語教育」に移り行く時代に対して、英語学者の斉藤氏が「待った」をかけると いう内容です。これほど大きく新聞にこの趣旨の記事が載るのは初めてではないかなと、思います。もしお読みでなければ、ファックスさせてください。



江戸の母さん
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月 2日(日)12時04分35秒 編集済
 レッスン初回の感想、お書きいただきありがとうございます。

>母の分の振込みは子供たちのレッスンと同じ日に月初めめやすに、一緒に振り込みます。

 よろしくお願い致します。

>足長蜂の住むジープも了解です。

 春はまだ今年の巣を作ってなかったのかもしれません。今だと、もろやられますね。家の出入り口にでも作られない限り、蜂も薬で殺すことをしませんの で・・・。

>テキストの読み方に慣れなくて、どこやってるんだろう〜〜とオロオロしてしまいました。

 大文字で始まりピリオドで終わる部分、つまり英文まるごとの部分だけをレッスンで扱います。慣れると、英文まるごとの部分だけが目に飛び込んでくるよう になります。

>それにしても、全然バリバリ日本人発音の英語でお恥ずかしい(汗汗)なおしがいのある生徒ということで自信を持ちます(><)

 少しずつ直していきます。とにかくたくさん口を動かして下さい。しばらくの間は、一つの文で一箇所を直すことを基本的な方針としています。

>今日のレッスンの最後の文章で、自分の中で区切り方が、「あっ」って感じで落ちてきた気がしました。それまでも〜〜〜無我夢中で^^ 『テキストに隠さ れた工夫』ちょっと垣間見た気がしました。次回はなんか録音手段を考えておきます。

 録音しておくと、一年後には自分の音が大きく変わっているのがわかると思いますので、録音してみて下さい。うまく録音できていたら、一年後にまた録音し て、両方をネットの音声ファイルにしてホームページに使わせて下さるとありがたいです。たいてい恥ずかしいからいやだと思われてしまうんですが、実は初心 者、中級者にとって貴重なデータであるはずなんです。

>ちなみに、レッスンの先輩である息子のコメントは「ママ、怒られた?」と「何行目やってるの?」デシタ
いや、別に起こられては無いよ^^ あと、同じテキストじゃないからさ・・・
そして子供たちと布団でお経のように「incredible」を唱えながら、眠りましたzzz

 息子さんは、お母さんが初めてのレッスンでおろおろしているのを見て、心配してくれていたんですね。私のレッスンでは、どなたにもあまり説明せず、いき なりレッスンの実質部分に突入していただきます。二回目以降、レッスンの進め方に関しては一挙に楽になります。音を直すことに集中できるようになります。

>村田さんの声が、まるでスーツ姿のようで別人のようでした!(これは後で削除します・・・)

 いやいや、削除しないで下さい。村田君も、素読舎に「入門」した時は、今の江戸の母さんと同じくらいの音でした。私自身が、自分でみつけた「あいうえお フォニックス」に入門したのが40代だったので、今の音づくりは、素読舎の歴史の中では長さとして半分も占めていません。
 なるほど、「スーツ姿」ですか。面白い。

>ところで8月1日付けの朝日新聞朝刊15面に斉藤兆史(よしふみ)のインタビューが載っていました。「学校で「使える英語」なんて幻想だ」中学・高校で 教えるべきは文法と訳読。明治以来、基本は同じ。というタイトルで「会話中心の英語教育」に移り行く時代に対して、英語学者の斉藤氏が「待った」をかける という内容です。これほど大きく新聞にこの趣旨の記事が載るのは初めてではないかなと、思います。もしお読みでなければ、ファックスさせてください。

 できましたら、ポイント部分を引用して、この掲示板に入力していただけるとありがたく思います。「大風呂敷」の読者の方で、朝日新聞に目を通しておられ ない方はたくさんおられると思いますのでお願いしたいと思います。
 斉藤の記事が「文法と訳読」だけをやればいいというものでしたら、斉藤の言っていることは大間違いです。相変わらず、ここには「音づくり」という観点、 「素読」という観点がありません。教室に大勢の「お客さん(落ちこぼれ)」を作り出すだけだとか、音とイメージを合体させる方法がないから、ついに「しゃ べる英語」や「聞き取る英語」には行き着かないとか、批判点はいくつも思い浮かびます。
 斉藤は学校がやれることを最初から限ってしまっています。こういう言説が大手を振り、学校がこういう言説の枠内におさまるのであれば、私たちは税金など 払う義務はないと言えます。
 文法を軽視し、語学の言語と生活言語の区別をしない「会話中心の英語教育」が間違っているのは当然ですが、だからといって、「文法と訳読」に戻ればいい のだと言い出すのは、すでに存在している柴田武史さんの教室や私の素読舎を無視しているから言えるのです。もし斉藤が本職として「英語学者」のつもりな ら、反動でしかありません。
 ポイント部分を引用して下さった後、もしファックスして下さるようなら、記事の全文を読ませていただきます。時間がとれれば、そして、書かれていること が江戸の母さんがおっしゃっている通りのものなら、斉藤を批判したいと思います。
 ファックス番号は家の固定電話と同じですが、ご存知でしたでしょうか。



参考図書
投稿者:らくだ 投稿日:2009年 8月 2日(日)17時20分46秒
江戸の母さんは、斎藤兆史さんに関して何度か触れていらっしゃると思いますが、主旨としては、軽佻浮薄なコミュニケーション至上主義への警鐘としての斎藤 さんの論を評価されてのことと私は読み取っています。違いますか?
確かに根石さんのおっしゃる通り、斎藤さんの論は、「音づくり」について扱いが軽いところがありますが、素読・音読については奨励していると思います。力 点の置き方の問題であって、私は批判されるような論を展開されているとは思っていません。
最近、書店で売れ行き好調の書籍をご紹介しておきます。

『英語授業の心・技・体』靜哲人(研究社)

語学書というより、英語教育関連のコーナーに置かれていながら売れているようですので、英語の先生に購入されているのではないかと思われます。

非常に発音教育に熱心な先生で、クラスルームティーチングにおいて、いかに発音重視の教育をするかについての、さまざまな実践を紹介されています。

ホームページはコチラ↓

http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~shizuka/



斎藤 兆史氏
投稿者:江戸の母 投稿日:2009年 8月 3日(月)16時44分45秒 編集済
らくださん
コメントありがとうございます。そうですね〜〜「軽佻浮薄なコミュニケーション至上主義への警鐘」と、まとめていただいて、ありがとうございます!!「コ ミュニケーション」もいいと思いますヨ♪確かに、確かに・・・んでも、文科省の行おうとしている方向について、大事なのは「文法」と「発音」〜〜と、斎藤 兆史氏は言い続けていると思います。なかなかめづらしいなぁと思って注目しています。私、ファンなんです!NHK英会話でたまたま見て、発音を大切にして いるところ、英文学を大切にしているところに惹かれまして^^

今、スクロールして根石さんの発言があることを知りました。
らくださんの引用していただいたHPも、根石さんのカキコミも、まだゆっくり読む時間がありませんが、ありがとうございます。斎藤兆史氏のことは、改めて 書かせていただきますね。



江戸の母さん
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月 3日(月)18時08分4秒
 今日のレッスンのこと承知しました。

 発音と文法を柱にする授業と、文法と訳読を柱にする授業ではまったくものが違います。
 斉藤氏が提唱しているのは、いったいどちらなんだろうと思っています。
 私は斉藤兆史という人が書いたものを読んだことがありません。発音を軽視して、文法と訳読を柱にしろと本当に言っているのであれば、ふざけんじゃねえよ と思ったのでした。



江戸の母さん
投稿者:らくだ 投稿日:2009年 8月 4日(火)08時43分42秒
>私、ファンなんです!NHK英会話でたまたま見て、発音を大切にしているところ、英文学を大切にしているところに惹かれまして^^

わかりますよ。江戸時代の漢籍の素読を、英語の独習法としての素読につなげたところが斎藤さんの特徴ですね。代表作である

『英語達人列伝』(中公新書)
『英語達人塾』(中公新書)

は私も読みました。ただ、この方の経歴の中に、全くの初心者(中学一年生)を教えたご経験を読み取れないのですよね。「私が40人の中学一年生を相手に教 室で教えるとしたらこうする」というところを語っていただくと興味倍増なのですが。どこかでお書きになっているのをご存知の方がいれば、教えていただきた いです。



らくださん
投稿者:江戸の母 投稿日:2009年 8月 6日(木)05時35分8秒
斉藤兆史ファンといいながら、あまり著作を読んでいない私(><)
紹介していただいた本も夏休みに入手してみたいです。私が持っているのは「日本語力と英語力」斉藤孝+斉藤兆史(中公新書ラクレ)ですが、ここでは「小学 校からの『英語会話ごっこ』を否定し、母語である日本語をしっかりやる。日本語の力がついてきた中学生くらいから英語を基礎からやる」を提言しています。 私も小学校での今のやり方の英語授業には疑問があるので、同感しました。
「中学でどう教えるべきか」について、注目しながら今後読んでみますね。
この本でもそうですが他の100マス計算の影山英の本でも「素読」という言葉が出てきて、おおっと思うのですが、これがいつの間にか「音読」とだぶって、 最後には摩り替わって終わるような気がします。私もまだ素読の入り口に立ったばかりで・・・これから「素読」と「音読」の違いというのも、今後突き詰めた いです。(決して”掲示板アラシ”を意図してませんが、へんてこりんな発言ばかりして、すみません)



根石さん
投稿者:江戸の母 投稿日:2009年 8月 6日(木)06時10分36秒 編集済
朝日新聞の斉藤兆史氏の記事抜粋の件、了解しました。
時間を見つけて、作業しますね。

確かにこの記事に「音作り」というキーワードはあるかというと難しいです。
文法・訳読 中心ですね。(訳毒なんて言葉もあるのですね)

でも私の印象はハイトーンのNHK英会話が多い中、淡々と発音記号二つ程を取り上げ
地味に練習させていたのが斉藤兆史氏でして、決して発音を軽視しているとは
思えないのです。(あまりテレビをつけないんで、世間知らずなだけかも!
こういう発音の特集は定期的にあるのかもしれませんが・・・)

>文法を軽視し、語学の言語と生活言語の区別をしない「会話中心の英語教育」が間違っているのは当然ですが、だからといって、「文法と訳読」に戻ればいい のだと言い出すのは、すでに存在している柴田武史さんの教室や私の素読舎を無視しているから言えるのです。もし斉藤が本職として「英語学者」のつもりな ら、反動でしかありません。


わかりました。
教師一人vs複数の生徒を大前提とした学校の授業で、できる範囲というのは、「文法」「訳読」までと考えていましたが徹底した「音作り」が必須という「動 き」があれば、文科省を動かせるかもしれませんね。「動き」というのは、適当な表現ではありませんね。うまく思いつきませんが、小学校からの英語、高校で の英語教育は英語で行うという方針も、どこかからの「動き」があって実現化したものだと思うので。


私、斉藤兆史さんに「素読舎」のことを知ってもらいたいと思っているのです・・・が、もうご存知なのでしょうか。柴田武史さんのことも調べさせていただき ますね。

おとといになってしまいましたが、個別メールを送りました。お読みいただくだけで結構です。よろしくお願いします。



斉藤兆史氏インタビュー記事抜粋
投稿者:江戸の母 投稿日:2009年 8月 8日(土)22時46分35秒
朝日新聞2009年8月1日版〜抜粋開始〜
タイトル「学校で「使える英語」なんて幻想だ。」

英語は中学と高校で6年、大学を入れると10年も勉強したのに、話せない、使えない。これは日本で生まれ育った多くの人たちに共通の思いだろう。学校英語 が悪い、文法・訳読中心の授業はだめだ、会話をやるべきだ、ということも。(聞き手 編集委員 刀根館正明)*以下「」は斉藤兆史、()は聞き手。

「日本の英語教育の歴史は教授法の変化の歴史。外国から目新しい手法と入れた、でも使えるようにならない、だめだ、変えよ。この繰り返しです。「学校でで きるはずだ」を前提にするから、現場は右往左往させられてしまう。もうそろそろ、政府も経済界も一般の方々も、学校教育だけでは英語力がつくものではない と認識してほしい」

(中学・高校ではどういう英語を教えるべきだと思いますか)

「基本です。生徒たちが将来、自分の目的や動機に応じて学習を積み上げていくための土台を作ることに徹底すべきです。文法と訳読の基本を身につけておけ ば、会話力も高度な運用力も、自分でのばしていくことができる。」

(しかし、学校が、文法と訳読中心だったことに大人世代は「役に立たない」と思っています。)

「では週に数時間、教室で話す聞くを中心にしましょう、みんなでしゃべりましょうとやれば皆さんが期待する英語力がつきますか。子供たちが将来、高度な英 語力を目指そうとしたとき、土台ができているでしょうか。」
「このままでは簡単なことは話せても、高度な英語はわからないという学生が増えるのでは。私は現在の流れに危機感を持っています」

以上

簡単抜粋しました。

斉藤兆史氏については、ちょうど「英語力と日本語力」という斉藤孝との共著本を読んでいた同時期、発音記号を二つずつを取り上げるNHK英会話番組を見て 「あ、この人だ」と、本とテレビで同時に知ったのでした。

なので、著作では「文法・訳読」中心を、テレビでは「発音」をと、力を入れている姿が印象です。どちらも、英語を理解するために、必要だと力を入れている のが伝わるんですが、ただ、それがどのようにどの段階で結びついていくのかについては、私もまだよくわかりません。

確かに、読み直してみると新聞の記事を読むだけでは、テレビでの「発音重視」していた姿が見えてきません。「発音記号を教えないのも一因でしょう」の一文 と最後に、「素読・音読の勧め」(素読と音読が混在)です。紙面編集の都合もあるでしょうが、もう一声「もう一文」ほしい気がします。

私の解釈では「中学・高校では文法を読める力を培え、そして個人が必要に応じて学習を積み重ねということで、「「発音」を鍛えたい人は(他で)やりなさ い」ということなのかな〜とも思いますが、本当に一度ご本人に、確認してみたいです。

うちはちょうど子供が小5で英語が週1の科目となる年代なのですが、何をやるのか心配です。やはり「英語って楽しい〜」を目的とした授業になるのかな?2 年やったことが中学での英語と連結しているのかな?中学で習うことでの弊害はないのかな?それよりも、日本語をもっと力を入れてほしいな。算数だって、理 科だって文章を読み込めないと解けないし。とは、切実な感想です。

根石さんへ記事全文を近日中に郵送しますね。

会話中心の英会話学校に多額を投資した経験のある私としましては・・・
あの投資はなんだったんだ!素読舎につぎ込むべきだった!と反省しきりです(><)
育児休暇中からはじめればよかったなぁ〜



江戸の母さん
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月 9日(日)02時21分53秒 編集済
 朝日新聞の抜粋、ありがとうございました。
 学校の授業で「使える英語」までもっていく必要はない。それよりもとことん「基礎」をやるべきだという斉藤兆史の主張に、私は基本的に賛成です。大枠で 賛成ですが、その「基礎」の中身が、発音でなく訳読だというところで、私は大いにむかつきます。
 「文法と発音」こそが「基礎」という名で呼ばれるべきであり、「文法と訳読」では、「駄目な学校英語」に逆戻りです。「駄目な学校英語」に何一つ肩入れ する必要はなく、駄目なものは駄目なのです。それは駄目なものとして実際に存在してきました。駄目だと世界が指さしています。忙しいからって、寝ぼけてい てもらっちゃ困るのです。
 いつまでも Jenglish などとアメリカ人なんかにからかわれている時ではありません。

 必要なのは、「訳読」なんかではありません。通訳や翻訳家を育てる過程でなら、これは必須項目かもしれませんが、学校でやるべき「基礎」では不要です。 学校では、「訳読」はさっさと滅びなければいけないものです。それなのに、今頃になって、「文法と訳読」などと言い出している。馬鹿を言ってもらっちゃ困 るのですし、寝ぼけていてもらっちゃ困るのです。

 影響力のある人が、こういう馬鹿を言い出している。

 「英会話」なんかを学校が扱うべきではないというところは賛成です。
 「学校教育だけでは英語力がつくものではない」というのも賛成です。
 しかし、「文法・訳読」と言い出したところで、斉藤は駄目なのです。

 大御所からのコメントなんぞあるわけはないが、書き言葉のいいところは、私がむかついて書いた文がいずれ残ってしまうところにあります。
 斉藤が「大風呂敷」など丁寧に読んでいるわけはなかろうが、「訳読」に置き換えるべき練習は、「言いながら書きながら思う」です。

 斉藤の論は、イメージを扱えていないところが語学論として二流です。

>では週に数時間、教室で話す聞くを中心にしましょう、みんなでしゃべりましょうとやれば皆さんが期待する英語力がつきますか。子供たちが将来、高度な英 語力を目指そうとしたとき、土台ができているでしょうか。」

 この部分が、斉藤が言った最良の部分です。
 「訳読」を言い出したところが最悪の部分です。

>確かに、読み直してみると新聞の記事を読むだけでは、テレビでの「発音重視」していた姿が見えてきません。「発音記号を教えないのも一因でしょう」の一 文と最後に、「素読・音読の勧め」(素読と音読が混在)です。紙面編集の都合もあるでしょうが、もう一声「もう一文」ほしい気がします。

 「言いながら書きながら思う」を言えないから、こういう右往左往が生じているのです。

>私の解釈では「中学・高校では文法を読める力を培え、そして個人が必要に応じて学習を積み重ねということで、「「発音」を鍛えたい人は(他で)やりなさ い」ということなのかな〜とも思いますが、本当に一度ご本人に、確認してみたいです。

 すでに学校の教室で、まともに発音を扱ったものが存在しています。佐賀県の柴田武史さんの教室です。斉藤は、徐々に、英語教育学会という魔に食われ始め ているのだと思います。柴田さんが見えないのですから。
 私は長年、英語回りは馬鹿ばっかしと放言し続けてきましたが、英語回りは「腐れ」ばっかしと言い直すこともできます。

>それよりも、日本語をもっと力を入れてほしいな。算数だって、理科だって文章を読み込めないと解けないし。とは、切実な感想です。

 じゃあ、私が日本語の素読を「スカイプ(電話)でレッスン」で扱った場合に、それに対して、親がお金を払ってくれるだろうかと思い続けてきました。私が やりたい仕事の一つですが、親のレベルがそういう練習にお金を払うレベルではないので、私は「英語」を扱ってきました。

>根石さんへ記事全文を近日中に郵送しますね。

 お手数をおかけして申し訳ありませんが、お盆の休みに読んでみます。

>会話中心の英会話学校に多額を投資した経験のある私としましては・・・

 そうでしたか。残念です。

>あの投資はなんだったんだ!素読舎につぎ込むべきだった!と反省しきりです(><)
育児休暇中からはじめればよかったなぁ〜

 そうですね。「素読舎につぎ込む」っていう言葉はいい言葉です。
 お金をつぎ込んでも、素読舎の場合は、実質が得られます。20万円つぎ込めば、それなりに走る中古の車が手に入り、80万円つぎこめば、それに応じた品 質の車が手に入るのと同じように、素読舎のレッスンなら、実質が手に入ります。ですが、それが目に見えないので、素読舎は日陰者を続けてまいりました。
 英会話学校につぎこんだ金は、英会話学校は役に立たないということを知るための金だったと認識していただきたく思います。



根石さん
投稿者:らくだ 投稿日:2009年 8月 9日(日)22時14分48秒
>学校では、「訳読」はさっさと滅びなければいけないものです。

「訳読」の定義はどのようなものでしょうか。また、学校だけでなく、英語学習のすべての過程において滅びるべきものでしょうか。



らくださん
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月10日(月)00時07分44秒
>「訳読」の定義はどのようなものでしょうか。また、学校だけでなく、英語学習のすべての過程において滅びるべきものでしょうか。

 私は「訳読」について定義などを考えたことはありませんでした。私がイメージしているのは、かつて(今でも?)日本全国津々浦々の学校で行われていた (いる?)英語の授業です。つまり、英文を対象にして、生徒にそれを日本語に訳させるという授業です。もっとひどいものになると、教師が自分で英文を日本 語に訳し、それを生徒に聞かせて授業だとしてしまうものさえあります。
 生徒に訳させるにせよ、教師が自分で訳すにせよ、日本語に置き換えることを終着点にしてしまうやり方です。日本語に置き換えて「安心する」やり方です。

 このやり方が駄目なのは、生徒にいちいち英文を日本語に置き換える癖をつけることにあります。単語一つでも、英単語に対して日本語の単語を対置する癖を つけてしまいます。具体的な英単語に対して、具体的な日本語単語を対置する癖がつき、その癖が抜けなくなったら、その人の英語はアウトです。「イメージを 持つことからアウト」になります。そしたら、語学としては全体としてアウトなのです。
 具体的な英単語に具体的な日本語単語を対置する、あるいは、それが文単位になって、英文に対して日本語文を対置することをやると、具体的な日本語の単語 や日本語文があるおかげで、日本人は「安心」できてしまい、英単語そのものの「イメージ」を持たないで済ませてしまうことができます。実際、「訳読」に慣 らされた生徒の中には、英単語そのもの(英文そのもの)のイメージなんか持とうとせず、(テストのために)「訳された具体的な日本語」を覚えようとする者 が出てきます。実際に学校の多くの生徒がそういうことをやっています。素読舎でも、入塾間もない子供がそういうことをやるのを何度も見ました。
 語学という観点から見るなら、学校がやってきた「訳読」は、それが「柱」とか「基礎」とか「基本」という観念とともに行われるならば犯罪です。英語を 扱っているのに、英単語や英文そのもののイメージを持つことをわざわざ阻害してしまうからです。

 私も「訳読」は使うことがあります。生徒がどう文を理解しているかを調べるのに、「訳読」させるのがてっとり早い場面があるので使います。文法の説明を した後で、「じゃあ、この文を日本語にしてみて」と指示し、文法がどう理解されたか調べるために使うような使い方です。これはあくまでも、生徒の受容力な どを調べ、その後の練習をどう組み立てるかを考えるためにやるのであって、英文を見たら日本語文を対置する癖をつけるためではありません。一定期間訳読さ せてみて、語彙力や文法力がどの程度かがわかれば「訳読」は用が済むので、普段の練習では使いません。「発音と文法とインプット」を主体とした普段の練習 があり、「訳読」は練習をどう組み立てるか考えるために使うだけです。特殊な項目に過ぎません。そんなものを「基礎」の項目にしてしまってはいけないので す。

 生徒の中で、イメージがどう動くのか、それが動く様子をリアルタイムで見るなどという方法はありません。「訳読」でもさせてみる以外に、確認の方法はな いのです。浮木の動きで魚の動きを推し量るような間接的な方法ですが、一応、「訳読」でおおざっぱな「確認」はできます。確認の方法がなければ、生徒を評 価する方法もなくなってしまいますから、「訳読」というのは、生徒を評価するためにあると言って過言ではありません。生徒のためにあるのではなく、学校の ためにあるのです。成績という序列を生徒に与えるために、「訳読」は役にたちます。日本の学校の英語の授業が、「訳読」に寄りかかってきた根底の理由はそ れです。
 しかし、それを「基礎」とか「基本」の項目にしたら、もうそれで、語学から見たら犯罪なのです。評価に必要な項目は、生徒に力をつける項目と同じである ことはめったにありません。実際、「訳読」は生徒から本来的な意味での英語力を奪います。(日本語力を養うかもしれません。だから、日本語の教室で「英文 の訳読」をやるのであれば、私に文句はありません。)

 中学、高校など、英語の基礎力を養成する過程で、「訳読」を「基本」になどしたら、それはとんでもない大間違いだと私は言っているのです。多くの人がこ のことは言っていると思いますし、その主張に間違いはないと思っています。

 通訳養成、翻訳者養成のような過程では、「訳読」はむしろ必須項目になるだろうということははすでに書きました。しかし、これはもう語学から片足を外側 に踏み出したような場面で、私たちが問題にしている語学の場面ではないと思います。



訳読について
投稿者:らくだ 投稿日:2009年 8月10日(月)13時01分23秒
訳読=日本語に置き換えることを終着点にしてしまうやり方

という定義は、おかしいと思います。そう定義しますと、

> 私も「訳読」は使うことがあります。

と矛盾してしまいます。やはりここは、

訳読=英文を日本語に訳すことで意味を確認しつつ読み進めること

ぐらいなのではないかと思います。

そして、私が斎藤兆史さんの著作をいくつか読んだかぎりでは、斎藤さんが「日本語に置き換えることを終着点にしてしまうやり方」を是としているとは思えま せん。したがって、朝日の記事程度を元にした批判に深入りする事は有益と思いません。斎藤さんを俎上にあげるにしても、他に考えるべきことがあるのではな いかと思います。

「訳読」について、少し話を進めさせてください。「訳読」を根石さんは使っています。おっしゃる通り個人指導だから有効に使える面があると思います。これ を教室において30人、40人を相手に効果的に使う方法は無い、したがって「訳読」は個人指導ではOKだが教室ではご法度、という事はできるでしょうか。 また、その場合、個人指導で「訳読」が果たす機能と等価な機能は、教室においては何によって実現可能とお考えでしょうか。



どんでん返し
投稿者:江戸の母 投稿日:2009年 8月10日(月)14時07分36秒
斉藤兆史氏への反論について、
ありがとうございます。もうすでに何度もこの掲示板で書いていることかとも存じますが、再び書いていただいてありがとうございます。

また、柴田武史さんを検索して下記のページを見つけ、とても参考になりました。
http://www.seg.co.jp/cgi-bin/kb7.cgi?b=sss-old&c=e&id=907

そしてさらに検索していたら、なんと、素読舎のページにもあったのですね!”灯台もと暗し”とはこのことぞ。お宝がたくさん眠っているのですね!掘り起こ せ〜〜

そして、昨日はもくもくと「英語どんでんがえしのやっつけ方」(小学館文庫)(以下、どんでんがえし」も読んでいました。斉藤兆史氏のこの話を経て、そし て柴田さんのコメントを経て、さらに私も数回ほど素読レッスンを受けたこと、この経験があって、著作「どんでんがえし」の中の言葉がどんどんと入ってくる ような気がします。

なんというか自分の経験からいうと、今まで「頭でっかち」というか「頭からしか考えてなかった」というか・・・うまくいえませんが、「身体化」「イメー ジ」「立体化」というのが今の私の中のキーポイントです。

最近のことで、(年に数回だけ仕事で英語に携わるのですが)メールである用件を依頼する文章を作らなくてはいけなかったのですが、やっとのことで作って送 信し、返信のフィリピンの方のメールを見ると、私の作った文と比べ物にならないくらい、優雅なのです。私は「話し言葉」が作れないんですよね。

子供たちがうるさいので、また改めて書きます。とりいそぎ



らくださん
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月11日(火)02時28分31秒
>>訳読=日本語に置き換えることを終着点にしてしまうやり方
>という定義は、おかしいと思います。そう定義しますと、
>> 私も「訳読」は使うことがあります。
>と矛盾してしまいます。

 この種の矛盾はどうでもいいことです。私は、教科書的公式を作るつもりはないので、表面的論理に矛盾があることはどうでもいいのです。
 「訳読」は、私が採用しようが、学校の教室で教師が採用しようが、「日本語に置き換えることを終着点にしてしまう」性質があります。これは、いいか悪い か以前に、「訳読」が持っている性質です。
 だから、私が「訳読」を採用している期間は、「日本語に置き換えることを終着点にしてしまう」性質は生徒に作用を及ぼします。誰がやっても、「訳読」を やれば、その作用を避けることができません。
 問題は、「訳読=悪い作用を持つもの」を、私が使うのであれば、「矛盾じゃないか」というところにありません。「訳読」を「基本」やら「普段の練習の 柱」にしないなら、「訳読」の麻薬的害にやられることはありません。麻薬も少量使うなら薬です。
 私の方法の基本は、「音作り=インプット」であり、それに文法理解、発音(音づくり)を噛み合わせたものです。「訳読」は生徒に、文にどういうふうに文 法が働いているのかを理解させるきっかけにしたり、私(コーチ)が、その生徒に対してどういう教材を作るべきかを考えるために採用することがあるに過ぎま せん。
 文法作用を理解する「きっかけ」にしたり、教材を構想するために、ある一定期間(一年を越えないくらい)、「訳読」を採用することがあるにすぎません。 基本は別のものです。
 私は、「訳読」を「使う」のです。
 ところが、学校が「訳読」」をやると、それを「基本」にしてしまうのです。年がら年中、何年にも渡り、「訳読」ばかりやる教師が出てきてしまいます。
 このことを言い換えるなら、「訳読」を常時行う教師は、訳読を使っているのではありません。訳読に「使われている」のです。これはまったくものごとが転 倒してしまっています。

 私が「訳読」を「使う」場合、「日本語に置き換えることを終着点にしてしまう」性質には絶えず用心しながら使っています。そして、一定期間しか使わず、 例えば、生徒が文法がどう文に作用しているかを理解する過程を経たら、その後は「訳読」はまったくやりません。具体的な日本語を次第に脱いで、イメージを 英単語(英語)そのものと合体させる過程に入ります。

>やはりここは、
>訳読=英文を日本語に訳すことで意味を確認しつつ読み進めること
>ぐらいなのではないかと思います。

 それは、生徒が一人で自分に対して行う練習になると思います。
 学校の教室で「訳読」をやった場合は、とうていこんな上等なことは起こりません。
 学校の「訳読」なんてものは、授業の形を作るためのものとして長年にわたり機能してきたしろものです。その背後にあるのは、教壇という高み、教員免許と いう国家のお墨付き権威にすぎません。
 「意味を確認しつつ読み進める」ということを経て、「訳読」の正解を言う生徒は一部にいるでしょうが、あくまでも一部です。多くの生徒は、「日本語に置 き換えることを終着点にしてしまう」ということをまともな練習方法として植え付けられ、「訳読」の癖を固定されてしまうのです。そこで、語学が滅びるので す。

>そして、私が斎藤兆史さんの著作をいくつか読んだかぎりでは、斎藤さんが「日本語に置き換えることを終着点にしてしまうやり方」を是としているとは思え ません。したがって、朝日の記事程度を元にした批判に深入りする事は有益と思いません。斎藤さんを俎上にあげるにしても、他に考えるべきことがあるのでは ないかと思います。

 斉藤が「訳読」などを「基本」扱いしているのであれば、それを問題にすべきだと思います。そもそも、私は斎藤兆史が売れているという知識はいつのまにか 持っているのですが、斉藤がこれまでに何を言ってきたのかを知りません。読んでいないのです。
 多分、江戸の母さんが見られた通り、お人柄がよろしいのでしょう。
 しかし、お人柄がどれほどよろしかろうと、「訳読」を「基本」扱いした時点で、私は批判を始めます。

>これを教室において30人、40人を相手に効果的に使う方法は無い、したがって「訳読」は個人指導ではOKだが教室ではご法度、という事はできるでしょ うか。

 個人指導でも、どう「使う」か次第だと思います。ある一定の機能を「使う」ことに自覚的でないなら、個人指導でも「訳読」など扱うべきではないと思いま す。

>また、その場合、個人指導で「訳読」が果たす機能と等価な機能は、教室においては何によって実現可能とお考えでしょうか。

 「言いながら、書きながら、思う」という三位一体を生徒に説明できる言葉を教師が持つことだと思います。しょせん、生徒の体でイメージの動く動態は、 「絶対に」コーチに見えません。だったら、教室なんかでイメージや意味を直接に扱えるなどという妄想は捨てるのがいいと思います。「訳読」は、「直接に」 を実現しません。英語を日本語に置き換えるから「直接に」が壊れるのと、さらにもっと原理的に、生徒の中で動くものを「直接に」知る方法は何ひとつないと いうことによります。先日書いた通り、「訳読」は浮木釣りにすぎません。

 学校の教室は、個々の知識など扱ってべんべんとしているのが駄目なのです。(生徒が)まともに読めもしない文の文法などをくっちゃべっているのが駄目な のです。生徒が「まともに読めない」以前に、先生自身が「まともに読めない」教室だっていっぱいあるでしょう。
 「言いながら、書きながら、思う」でもそれが有効であることを生徒に納得させられるかどうか、なぜ「読めもしないものを書いても駄目」なのかを生徒に納 得させられるかどうか。「音づくり」が最良のインプットの方法だということを生徒に納得させられるかどうか。
 理論がはっきりしていて、理にかなうものであれば、やりたい生徒はどんどん自分で練習するでしょう。学校の教師は、語学論を持たなければ駄目だと思いま す。
 そして、語学論こそ、学校から払底しているものです。
 学校は、そんなに多くのことをやらなくていい。
 それこそ、「基本」をやってもらいたい。
 「基本中の基本」が語学論であり、次に「音づくり」であり、まともな音で生徒にインプットされた文に関する文法です。それだけやれば、生徒は自分で練習 する。それだけやっても、練習しない生徒は語学に「縁なき衆生」だから、適当にさっさと卒業させればそれでいい。
 語学論を鍛えようとする教師がいったいどれだけいるか。砂浜でゴマ粒を探すような索漠とした気持ちになります。語学論を書けない教師ばかりであるなら ば、学校は無であり、空であり、実際は「もう終わっている」のです。



さらに「訳読」について
投稿者:らくだ 投稿日:2009年 8月13日(木)12時09分30秒
「おまえ、英文和訳なんて百害あって一利無しだから、絶対やんなよ」

と自信を持って息子に言えるだろうか。少なくとも現時点においては言えないだろう。

ちょっと状況設定してみます。息子が京都大学を志望したとします。京大は難解な英文の和訳をさせることで有名ですね。ちなみに問題は ↓コチラ

http://mainichi.jp/life/edu/exam/daigakubetsu09/graph/kyodai1/eigo/1.html

こういった英文を読みこなし和訳する力を付ける過程で、「訳読」の訓練は一切不要である、と納得させてくれる学習の道筋(教材とその学習の仕方)が示され れば良いと思っています。

関連して、いくつかの資料を挙げておきます。考える材料です。

まずは、広島大の柳瀬陽介さん

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_07.html

次に鵜沢戸久子さん(柴田さんご推薦のウザワシステム教育研究所)

http://uzawa-system.com/

ブログで斎藤兆史の記事について書かれています。

それから、関西大学の靜哲人さん

http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~shizuka/

「Practical Papers」のコーナーに、いくつか「訳読」についての論考があります。「京大生A君との対話」は、最近話題のご著書『英語授業の心・技・体』の中でも 取り上げていらっしゃいます。

教授法としての「訳読」、学習法としての「訳読」を論じた自由堂さん

http://www5c.biglobe.ne.jp/~jesazuma/



らくださん
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月14日(金)01時10分1秒 編集済
>こういった英文を読みこなし和訳する力を付ける過程で、「訳読」の訓練は一切不要である、と納得させてくれる学習の道筋(教材とその学習の仕方)が示さ れれば良いと思っています。

 英文は英文のままイメージにし、日本語にしない。
 日本語は日本語で、いい本を読み、自分で考える。
 この二つをちゃんとやればいいと思います。
 二流か三流(どちらかと言えば三流)の受験校・長野南高校から名古屋大学工学部に入り、京都大学大学院の宇宙工学科だったかに進んだ素読舎の塾生がいま す。こいつが素読舎で何をやったかを村田君との対談でしゃべった記事がどこかにあったはずだと覚えています。
 村田君、ご案内お願いします。

 ちなみに、広島大学の柳瀬はとんでもなく思い上がったやつで、私は一度どやしつけ、謝罪させました。
 これもどこかに記事があるはずです。
 村田君、ご案内お願いします。

 娑婆で、英語学習法についてつべこべ言っているのは、たいがいが、アメリカ帰りをステイタスにしてででかいつらをしているやつらばっかしじゃございませ んか。アメリカ帰りのお人たちには、日本在住のままで英語力をつける方法は本当はわからなくなるのです。彼らが英語をしゃべるのは、彼ら自身の力は半分か 半分以下で、半分か半分以上は英語「磁場」のおかげです。こういう人たちは日本在住のままの英語学習が本当は何にまみれて、どんな泥をかぶって、その中で どんな宝石を作り出すのががわからないのです。わからなくなるのです。斎藤兆史さんも、見事に「語学論」は二流じゃございませんか。自由堂さんやら、鵜沢 さんやらのことも私はよく知りません。鵜沢さんは、ちゃんと子供に英語力をつける方法は持っているらしく思われますが、「語学論」が書けているのかどう か。「語学論」という基礎研究をやらずに、磁場帰りがつべこべ言っても、参考にする程度ならいいが、本当に確かな方法にならないと思っています。
 「言いながら書きながら思う」という単純明快なことを提唱した人がどなたかいらっしゃいましょうか。この場面を外して、みんな複雑な上等なハウツウを提 示しているだけです。

 訳読はやるべきではありません。
 英語力は英語力として作り、日本語力は日本語力として作り、自分で考えるなら、日本の大学のどこに受からないというのでしょう。そんな大学はありませ ん。



らくださん
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月14日(金)02時07分19秒
 いくつかのホームページのご紹介をありがとうございました。
 柳瀬は反吐が出るので、読みませんでした。

>僕が見てきた,世間で非難されているところの文法訳読法というのは,結局英語教師が高校で生徒に教えるためだけのものであり,彼らにはその文法訳読法を 自分の英語学習に使ったら便利だとか,役に立つとか考えて使っているわけではないのだろう。

 自由堂さんが、「英語教師が高校で教えるためだけのもの」と言っているものが、日本の学校で行われている訳読法のほとんどすべてです。先日、私が書いた 「教師が授業の形をつくるためだけのもの」という趣旨も同じことを言ったものです。
 のべつまくなし、のんべんだらりん、それが自分にとって一番楽に授業の体裁を作れるという理由で、教師が訳読を採用しつづけることを私は批判していま す。斎藤兆史の「訳読」も決してこういう堕落を食い止める力を持たないばかりか、こういう堕落した教師どもに「東大教授からのお墨付き」を与えてしまうで しょう。
 生徒が自分で自分に対して行う練習では、訳読をある時期、「媒介」にするのは必要でしょう。それは、文法がどう働くかを理解し、文の意味を理解するのに 必要です。しかし、文法がどう働くかを直感の動き(センス)にまで抽象化すべきですし、それができて以後は、理解した意味を「日本語として結実」させるこ とは排すべきです。

 鵜沢さんは、人あたりのいい文章ばかり書いていますが、本音を言わせれば、斎藤兆史の批判を始めるはずだと思います。みんなお人柄のよろしい人ばかり で、堕落を堕落のまま放っておくようです。



記事の案内
投稿者:村田晴彦 投稿日:2009年 8月14日(金)02時57分24秒
田中君が素読舎で何をやったかについては、こちらの記事を参照してください。
http://ooburoshiki.yokochou.com/log/12601-12700.html
の「【12603】大学合格対談」

柳瀬さんについては、こちらです。
http://ooburoshiki.yokochou.com/ron/nakaniwa/sakujo.html
「【タイトル】高見さん、有藤さん(1)」以降の記事



訳読は必要
投稿者:らくだ 投稿日:2009年 8月14日(金)08時02分28秒 編集済
学校の英語教師が「あの手の授業」に終始するならば、それは全くダメであることは常識であり、いまさら批判も何もありません。

> 生徒が自分で自分に対して行う練習では、訳読をある時期、「媒介」にするのは必要でしょう。

このことが確認されれば、それで良いと思っています。



村田さん
投稿者:らくだ 投稿日:2009年 8月14日(金)13時05分28秒
せっかくリンク張っていただいた田中さんの事例ですが、私の質問への回答になっていないと思います。これは成功例ではなく失敗例ではありませんか?

私の質問(質問形式にはしていませんでしたが)は、

>こういった英文(京大の問題のような難解な英文)を読みこなし和訳する力を付ける過程で、「訳読」の訓練は一切不要である、と納得させてくれる学習の道 筋(教材とその学習の仕方)が示されれば良いと思っています。

です。根石さんの回答は

>英語力は英語力として作り、日本語力は日本語力として作り、自分で考えるなら、日本の大学のどこに受からないというのでしょう。そんな大学はありませ ん。

であり、田中さんの事例の紹介となったわけです。しかし、田中さんご自身が語られているように

>田中 本当は、京大を目指していたんですよ。駿台とか河合の実戦オープン模試があって、入試即応の問題をやったりもしてたんですよ。誰にもそういう情報 は見せずに(笑)
 友達には最初の頃、「俺は京大に行く!」と言ってたんですけど、途中でこれはほんとに無理だと思いました。英語にしてもちっとも解けない。
村田 そう?
田中 そうなんですよ。英語は和訳と英作しか出ない。読む量もそんなに多くないけど、自分では難しく感じて。これはいけない、と。

ということですね。この失敗の原因はどこにあったと分析されますか?



らくださん
投稿者:村田晴彦 投稿日:2009年 8月14日(金)18時26分56秒
もしも田中君のケースが失敗だとします。
彼は当時の塾の誰よりも激しく練習していたと思うのですが、それでも時間が足りなかったのかもしれません。
また、短期間でやめた日本語の素読を続けていたら、また違ったことになっていたかもしれません。

でも失敗だったんだろうか。私は失敗だったとは思えません。
田中君が、もしも「京大は難解な英文の和訳がメインだから、『技法グラウンド』なんかやってる場合じゃない」と考えて、和訳を中心にやっていたとします。
彼はたぶん、「進学校としては無名の学校から名古屋大学へ合格する」という快挙もなしえなかったでしょう。
彼が素読舎でやっていたことは、ほぼ「音づくり」のみで、それこそが彼の英語の基礎体力を強烈に高めたはずです。和訳は、その枝葉にすぎない。和訳を中心 にしていたらこうはならなかったでしょう。
わたしはその後、彼が京大の大学院に進んだと聞いて、ずっとねらってがんばったんだね、と思いました。「音づくり」を基本とする、という方向性が彼の中に できていたから、初志貫徹できたんだと想像しています。



らくださん
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月14日(金)19時23分31秒 編集済
 らくださんは、長野南高校という学校のレベルと名古屋大学だとか京都大学だとかの学校のレベルの「落差」がどれほど大きいのかがおわかりにならないのだ と思います。
 田中が名古屋大学に行くと友達に話したとき、長野南では、多くの生徒が美容師になる学校や調理師になる学校に行くので、「それ何の仕事に就くための学 校?」と聞かれたそうです。各種学校の一つだとしか認識されなかったのです。まあ、語の本来の意味で言えば、名古屋大学だろうが、京都大学だろうが、東京 大学だろうが、みんな「各種」の学校の一つには過ぎないんですが。田中がねらったところは、「受ければ受かる」そんじょそこらの学校だと思われたのです。 田中がいたところは、「進学校」としては底辺校だと思います。
 底辺校の生徒が志を持ったとき、どれだけの大きさの落差を登るのかが、らくださんにはおわかりにならないのだと思います。

 長野南高校から名古屋大学。

 これはそんじょそこらにやたらある事例ではありません。

 これが失敗例なら、成功例ってのは何のことでしょうか。
 一流高校から、一流大学に入り、アメリカなんぞの一流大学を出て、日本に帰り、でかいつらをすることでしょうか。そんな連中が気にくわないので、私はい くら疲れても、語学論をやめないのです。

 田中が自分で判断して、京都から名古屋に変えた。私は、志望校選びについては、一言も言わなかった。名古屋に変えて田中は合格した。
 これのどこが失敗なのでしょうか。
 冗談じゃない。



素読舎は
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月14日(金)19時57分28秒
 この世の縛りに風穴をあけることをやってきた。
 田中の長野南高校から名古屋大学合格は、いくら長野県の北信地方にしか通用しない話であろうと、気持ちのいい風穴だった。青空が見えたように思った。田 中も京都大学の大学院を出て、娑婆に出たのだから、そうそう青空ってものは見えないようになるだろうが、一度はっきり見た青空は、田中が生きていく上で必 ず力になる。

 成功も失敗も糞もあるものか。
 生きる力を得たかどうか。
 受験なんてものには、その意味しかない。



村田君
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月14日(金)20時26分1秒
>彼は当時の塾の誰よりも激しく練習していたと思うのですが、それでも時間が足りなかったのかもしれません。

 「かもしれません」どころじゃねえんだよ。
 確か田中本人から聞いたことだと思うが、あいつは高校に入学したとき、アルファベットもまともに読めなかったんだ。「音」としてまともかどうか以前に、 認知できていない文字がいくつもあったんだ。

 「ほぼゼロからの出発」を高校一年の後半に素読舎で始めたんだ。
 長野南高校から名古屋大学合格。
 これをお前の塾でもう一度やってみせろと言われても、俺にはやれる自信はない。
 (無数の)田中一人における「革命」がなければ、そんなことは絶対に成立するものじゃない。

 あいつのやったことは、よくある公立中学で学年上位にいる生徒が、東京大学に合格するよりもはるかにずっと難しいことだ。東京大学出の学生がオックス フォードやらハーバードの大学院を出るよりもずっと難しいことだ。
 言っちゃ悪いが、村田君が東京大学に入るよりも、ずっと難しいことなんだ。
 それを田中はやったんだ。

 人のやったことを「失敗」だなんて言うことほど楽なことはない。そんなものは管理職の病気だと思って間違いはねえのさ。そりゃ、思考の体質が管理職に なっちまえば、既成の観念を食い破るのはとてつもなく難しいことだ。何が「失敗」かよ。

 なんにしろ、長野南高校から名古屋大学だぜ。

 田中が名古屋に合格したときの「青天井」の感覚は、俺は今も忘れていない。
 ジュンイチローが東大に受かったときよりはるかに強烈だった。
 その後二人とも、「会社」なんぞに入っちまったのが気にくわないけど。
 そしたら「管理職」だもんな。

 受験は詩だな。



そもそも京都大学の難問に関して
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月14日(金)20時51分54秒 編集済
 あんな問題は、大学の(一種の)権威付けです。
 やってることは、しょせん、得点上位の者から人数分だけ合格者にしているだけのことです。
 理解のレベルが高いのでも低いのでも、どのレベルであっても、得点上位の者から人数分だけ合格者にするだけのことなら、楽なもんじゃねえですか。易しい 問題を出そうが、難しい問題を出そうが、そんなことは本質と何の関係もない。どっちにしたって、合格者は作れるし、不合格者も作れる。果たしてどれだけの 京都大学合格者が、あの種の「難問」を「よく理解して回答」しているのかは、絶対に明らかにならない。
 むっちゃ易しい問題から徐々に難しくなる問題を1万問出して、さて君は何千問まで回答できるかな、とやっても、英語力のある種のものは測れます。私が 言っている「イメージと文字(音)の同致」のスピードなら、それで測れます。馬鹿らしい能力じゃない。これこそが、日本の「知的階層」が欲しがっている能 力じゃないか。企業も欲しがっている。大学も欲しがっている。

 だけど、しょせん「スピード」も「イメージ化」も、舞台の上で踊りを踊っているだけのことです。「イメージ化」によって得たイメージが、自分が生きるこ とと直結する経路をみつけない限り。

 本当は、とても馬鹿らしいことがあるのです。この馬鹿らしさはいまだうまく言えません。
 なにが東京大学、けっ。なにが京都大学、へっ。なにが早稲田大学、はっ。何が慶応大学、ふっ。そかそか、忘れちゃいけない、なにがハーバード大学、 かっ。なにがオックスフォード大学、くっ。
 こういう、けっ、とか、へっ、とか、はっ、とか、ふっ、はたまた、かっ、くっ、ていう感覚はとても大切なものと思っています。



根石さん
投稿者:村田晴彦 投稿日:2009年 8月15日(土)01時30分41秒
根石さんの書いたのを読んで、自分は田中君の突き抜け方、全然書けてねえなあ!と思いました。

>田中が名古屋に合格したときの「青天井」の感覚は、俺は今も忘れていない。

これですよね。

あとね、「そもそも京都大学の難問に関して」は全面的に同意です。
自分でらくださんあてに「京都大学の和訳問題はそもそも英語の本筋とは関係ない」と書こうとして結局書けなかった自分の甘さ、それをかみしめています。




村田君
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月15日(土)11時39分0秒 編集済
>自分でらくださんあてに「京都大学の和訳問題はそもそも英語の本筋とは関係ない」と書こうとして結局書けなかった自分の甘さ、それをかみしめています。

 書くべきだと思います。
 あの問題が「わかって解けて満点」だったら、日本だけじゃなく、世界のどの大学でも受かると思いますね。ハーバードだろうが、オックスフォードだろう が、「試験は水もの」っていう性質は変わりがないので、受かる場合も落ちる場合もあるでしょうが、あの種の問題が「わかって解けて満点」だったら、あの種 の問題を楽に感じるレベルにいるので、狙えば狙えるレベルにいると思います。
 こんなものを、日本の高校を出たばかりの生徒の前に置くのは、単に京都大学の見栄です。これを楽に感じるレベルは、(京都)大学に入ってからでも実現す る学生はごく少数でしょう。

 俺も作っている教材に、あの種の文をいずれ採用しようと思いますが、13万行台作ってもいまだ「地盤堅め」をやっている状態です。



根石さん(京大の和訳問題について)
投稿者:村田 投稿日:2009年 8月15日(土)13時33分20秒
了解です。
むしろ義務ですね。

これから1泊家を空けます。
「京大の和訳問題」についてはその後に書きます。



「訳読」へのお弔い
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月18日(火)02時33分45秒 編集済
>のべつまくなし、のんべんだらりん、それが自分にとって一番楽に授業の体裁を作れるという理由で、教師が訳読を採用しつづけることを私は批判していま す。斎藤兆史の「訳読」も決してこういう堕落を食い止める力を持たないばかりか、こういう堕落した教師どもに「東大教授からのお墨付き」を与えてしまうで しょう。
 生徒が自分で自分に対して行う練習では、訳読をある時期、「媒介」にするのは必要でしょう。それは、文法がどう働くかを理解し、文の意味を理解するのに 必要です。しかし、文法がどう働くかを直感の動き(センス)にまで抽象化すべきですし、それができて以後は、理解した意味を「日本語として結実」させるこ とは排すべきです。

 先日こう書いた。

 「一番楽に授業の体裁を作れるという理由で、教師が訳読を採用しつづけること」について、「学校の英語教師が「あの手の授業」に終始するならば、それは 全くダメであることは常識であり、いまさら批判も何もありません」とのらくださんのコメントがあった。
 本当に、「いまさら批判も何もありませんか」なのだろうか。もしも、学校で今も「あの手の授業」が行われているのであれば、それは批判すべきなのではな いのか。いくら「批判も何もない」とか「批判するにあたいしない」と自分を高みに置いたところで、それを批判しないのであれば、現実は何一つ変わりはしな い。
 学校がそれを続けているなら、これは単なる税金の無駄づかいでおさまらない。これは、生徒の英語力を作らないばかりか、英語力を壊す行為であり、これに 従順なままでいたら生徒の英語力は駄目になる。こんなものではどうにもなりはしないと生徒が自分で気付くことが一番大事なことだが、それを中学生や高校生 が気づくのは難しいことだ。一応、相手は「先生」であり、一応「尊敬」しなければならないことになっている。「先生」であり、「尊敬」しなければならない ことになっている人が、とことん駄目なことをやっていると気づき、それを批判し、それに反逆できる生徒は果たして100人に何人いるのか。
 私にしたところで、こんなものはとことん駄目と気づいたのは高校二年頃であった。それのどこが駄目なのかを言葉にすることはできなかった。とにかく、こ れじゃ駄目だとは思っていて、その教師の授業を無視し、英語の授業中は他の科目の勉強をする真似をしていた。英語だって他の科目だって、まともな勉強は高 校在学中はやったことがないのだから、こんな真似をするのはいかにも高校生らしい可愛いしぐさである。他の科目の勉強の真似はしょせん真似だから、ほぼ時 間の無駄になったが、認めるわけにはいかない英語の授業を認めるわけにはいかない。批判に至らなかったのは、その時感じていたことを言葉にできなかったか らだ。ただそれだけだ。

 駄目なものを駄目と見ていたその時の私の眼力を、私は今も少しも否定する気にならない。

 批判に至らない、「無言の抵抗」であった。私の父親は、「鋳物師屋のガンジー」と呼ばれているから、私にも多少その性質があるのだろう。

 私が嫌いだった教師は面白いことをやった。学校の教師は「指名して答えさせる」ということをよくやるが、この教師のやり方は、教壇に一番近い生徒から一 番後ろの席の生徒まで、縦の一列全員に答えさせるということだった。難しいことを扱い、このやり方をやればいちいち指名しなくても済むのである。それには 別に文句はない。私は、前から後ろの席までのちょうど真ん中あたりに座っていたが、私の列に答えさせるときは、いちいち生徒の名前を呼んで答えさせてい た。私の前に座っている生徒の答えがよくないと、次は俺かと当然思うが、教師は私をジャンプして、私の後ろの席の生徒を指名した。いつもそうだった。おも しろいやり方だ。権力を持つ者の、「みせしめ」のやり方なのだろう。このジャンプについて、休み時間にも、クラスの誰かがそれについて言及することは一度 もなかった。黙契があるのである。それが日本の学校なのであり、日本なのである。
 一年浪人して「やってやろうじゃねえか」と思ったことの元には、あの教師の「みせしめ」があったのかもしれない。その意味では、彼は優秀な反面教師だっ た。私は今になっても、「語学論」をやっているのだから、私の「語学論」の恩人だと言っていい。もし、まだ彼が生きていて再会できたら、つばを吐くような ことを言ってやるつもりだが。
 さてと。こういうことを書こうとしていたのではなかった。

>生徒が自分で自分に対して行う練習では、訳読をある時期、「媒介」にするのは必要でしょう。それは、文法がどう働くかを理解し、文の意味を理解するのに 必要です。しかし、文法がどう働くかを直感の動き(センス)にまで抽象化すべきですし、それができて以後は、理解した意味を「日本語として結実」させるこ とは排すべきです。

 「生徒が自分で自分に対して行う練習」と「学校の授業」とは水と油くらいに違う。天と地くらいに違う。どっちが天でもどっちが地でもいいが、実際に力を つけるのは、「生徒が自分で自分に対して行う練習」であり、「学校の授業」ではない。
 学校の授業ってものは、確かな指針を提示できればそれでいい。文法なら文法の扱い方が生徒がわかるようになるように、「教室でやらせる練習」を工夫して やらせるのはいい。それは、扱っている文法をわからせるためではなく、文法の扱い方をわからせるためである。扱い方を実際に実行するのは、生徒の一人一人 にまかせるのでいい。やりたい者はやるし、やりたくない者はやらない。やりたくない者にはつべこべ言わず、「無事卒業」させればいい。後で往生しようがし まいが、そんなことは知ったことではないのである。それは学校の責任ではない。
 学校がやるべきことは確かな指針を提示することである。それは「語学論」をやることだ。
 あくまでも私の経験に照らして言うだけのことだが、私はこれまでに一度も学校の授業で「確かな指針」を提示してもらったことはない。小さな「指針」は 言ってもらったことがある。私が好きだった先生が、「昔の大学入試は楽で、例文を千くらい覚えただけだ。例文暗記は役に立つぞ」と言った。この先生は「無 事卒業させる」が基本的な方針だった。
 さてと。
 浪人の一年で私が見つけたことは、思考を「具体的な日本語」から脱皮させて動かすことだった。日本語からは、「きっかけになるイメージ」をもらう。それ は「母親に生んでもらう」ようなことだ。それは私の命が存在した(する)おかげだが、母親にも日本語にも恩はある。(日本語の「恩」は英語で何て言うん だ?いまだにわからない。)
 さてと。

 訳読は、「思考を『具体的な日本語』から脱皮させて動かすこと」を阻害するのである。
 だから、「思考を『訳読』から脱皮させて動かすこと」をやらないと駄目なのである。

 訳読は必要だが、脱ぎ捨てるべき方法に過ぎない。

 私はここで日本語力のことを論じていない。
 日本語力は日本語力として日本語で養うのがいい。やってくれと言われれば私はできるつもりでいるが、誰もそんな注文はくれないだけだ。一番やりたい仕事 はお金にならないだけだ。
 さてと。
 私が論じてきたのは英語力のことだ。
 英語力の方から考えると、「具体的な日本語」も「訳読」も英語の練習の途中にある一項目に過ぎない。必要だが、途中にある一項目に過ぎない。新渡戸稲造 だろうが岡倉天心だろうが、國弘さんだろうが、「具体的な日本語」や「訳読」を抜け出して、自在なイメージの動きを思考にできたから達人なのであり、「訳 読」をやったから達人なのではない。
 これまで読んだ限りでは、斎藤兆史はこのあたりを言えていない。まあ、私が言うからいいけど。
 斎藤兆史は、自分の「訳読」が害になることに気づいていない。まあ、私が18の歳で気づいていたからいいけど。

 ふうむ。やっぱ、斎藤兆史を読んでみるか。
 時間がとれればだが。



斎藤兆史さんの本を読んでみた!
投稿者:吉 投稿日:2009年 8月22日(土)08時07分33秒
私は、斎藤兆史(よしふみ)さんという人を知りませんでした。
これだけの人を、知らなかったのです。 (お恥ずかしい、、)
しかし、これはいよいよ読んでみなくてはと思いました。
「訳読」という話題にいたったのも、斎藤兆史さんに対する根石さんの批判から始まったと思ったからです。

読んでいる途中のものを中断し、斎藤兆史さんの著書『日本人に一番合った英語学習法』を読んでみました。
江戸の母さん、この方の存在を教えてくださってありがとうございます〜。 面白かった〜。
「コミュニケーション主体の英語授業」を耳にするようになってから、英語著書の中に語学論を求めないようにしていました。
英語以外の著書を読むようになっていたのです。 斎藤氏の作品にふれ、食わず嫌いはいけないなと思いました。

まだまだ勉強不足だと思いました。 また久しぶりに英語関連の著書も読みたくなってきました。 (^-^)

根石さん、読後感想を持って言いますが、らくださんの書いたコメント
『朝日の記事程度を元にした批判に深入りする事は有益と思いません。』を、私も支持ます!!
もちろん、根石さんの「訳読批判」に対する論拠も読ませてもらいましたよ。 ありがとうございます。
よくわかりました。 しかし、斎藤氏を批判するのは、やはりマイナスです。

> ふうむ。やっぱ、斎藤兆史を読んでみるか。

よろしくお願いします。
斎藤さんの意見に共感できる人は、根石さんの実践語学論に惚れこむこと間違い無しだと思いますよ。
批判から入ると、せっかくこの掲示板にたどりついた斎藤氏のフアンが、根石さんの語学論に触れる前に逃げてしまいます。
できましたら、斎藤兆史氏に関しては、「共感点」を探して書いてください。 「批判」は人と人を別れさせます。

批判の対象が、自分の尊敬する人や自分のアイドルに対して向けられれば、根石さんから離れるでしょう。
「共感」が、人と人を結びつけるのです。 意見の近い人には、共感主体でお願いします。

さて、、、僕が読んだ斎藤氏の著書の中で、共感できるポイントをいくつかあげたいと思います。

・・・・・・・・・・斎藤兆史著 『日本人に一番合った英語学習法』より ・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・ 引用 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『他の技芸についても言えることだが、子供のうちは、とにかく型を仕込んでおくのがいい。
小さいころに体で覚えた型というものは、大きくなってからかならず役に立つ。』164頁

『ただ、ここでも重要なのは、きちんとした先生について、しっかりと型の練習をするということ。
間違っても、英語教育の素人である親が毎日英語で話しかけるなどという馬鹿なことはやらないでいただきたい。』164頁

『日本人に一番合った英語学習法は、何と言っても素読、暗唱、文法学習、そして多読。
これが日本人が高度な英語力を身につけようとする場合、欠かすことのできない基礎訓練となる。』 160頁

『ところが最近になって、そのような日本の英語受容史、さらには語学の何たるか知らぬ役人や「有識者」が、
小学校への英語の導入などを提案し、それを行政的な実施へと導いてしまった。
もとより、小さいうちからコミュニケーションを通じて学べば英語がしゃべれるようになるという、
何の根拠もない大衆の幻想に支えられて実現したような政策だ。  <略>
一旦始めた以上、ここで引っ込みのつかない語学行政は、それが何とか効果を上げるまで執拗にその政策を
押し進めようとするだろう。 おそらく、次に考えるのは、小学校における「外国語(実質的に英語)」の必修化。
それでも駄目なら、授業時間数を増やし、英語教師を増やしていくのだろう。
一刻も早くこの政策を止めないかぎり、日本の英語教育は駄目になる。
英語教育の質の低下ばかりか、気づいたときには、日本語の(さらなる)乱れ、早期英語教育の犠牲になった、、
(以下略)、、、(146−148頁)』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

う〜〜む、、納得しまくり。   根石さん、繰り返します。
らくださんの『朝日の記事程度を元にした批判に深入りする事は有益と思いません。』を、私も支持ます。

批判をするのならば、根石さんに「反吐が出そう」と言わせる程の相手になるべく限定してくださいね。
とくに今は、素読舎フアンの塾生さんや、親の会の皆さんが、ホームページなどを作って、
盛り上げて行こうとまとまろうとしている時期じゃないですか (^▽^)/
そういう大切な時期に、根石さんの発言で生徒さんが減る状況ではサポーターが、ガッカリですよ〜。

そうそう、ももこさんなんて、給料出して良いぐらいだと思いますよ〜〜。
忙しくても、感謝の言葉、ねぎらいの言葉をかけることは忘れずに! (と、これは大きなお世話でした、、)



吉さん
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月23日(日)18時34分33秒
>根石さん、読後感想を持って言いますが、らくださんの書いたコメント
『朝日の記事程度を元にした批判に深入りする事は有益と思いません。』を、私も支持ます!!

 朝日の記事程度だろうが何だろうが、公表されたものです。影響力のある人がおかしなことを言い始めたと思ったら、はっきりと言葉にして批判すべきだと考 えています。

 論点はすでにすべて提示したと思っています。東大教授の斎藤が、学校の授業では訳読をやればいいんだと言い出してしまえば、日本の学校では「例のていた らく」としての訳読が固定されてしまうのです。そういう「作用」というものがあります。
 訳読は練習の途中で必要になる一項目に過ぎない。文法がどう働くのかをわかるようになるのに、日本語を媒介にすることは一時期必要である。脱ぎ捨てるも のとして必要である。
 しかし、斎藤の言い方では、訳読を固定し年がら年じゅうそればっかりやっている税金泥棒に「東大教授のお墨付き」を与えてしまう。それを一介の弱小塾を やっている私が批判して何が悪いのか。どうにも納得できません。

>斎藤さんの意見に共感できる人は、根石さんの実践語学論に惚れこむこと間違い無しだと思いますよ。

 そんなことはないでしょう。

>>『ただ、ここでも重要なのは、きちんとした先生について、しっかりと型の練習をするということ。
間違っても、英語教育の素人である親が毎日英語で話しかけるなどという馬鹿なことはやらないでいただきたい。』164頁

 こういうふうに斎藤が書いても、素読舎への問い合わせにはほとんど影響していないと思います。

>斎藤兆史氏に関しては、「共感点」を探して書いてください。

 「共感点」に関しては、共感していればいいので、特に何も書く必要はないと思っています。もし読んでみていい本だと思ったら、この本はいいよ、というく らいなことは書くかもしれませんが。

>「批判」は人と人を別れさせます。

 批判というものに対する考えが、吉さんと私とでは非常に違うのだということが改めて確認できました。
 吉さんが斎藤兆史の著書から引用してくれたものについては、すべて賛成であり、特に言うことはありません。しかし、「訳読」の持ち出し方は批判すべきな のです。
 斎藤の「訳読」はかなり高度なもので、高校英語教師たちののんべんだらりんとは違うのかもしれませんが、それでもこの「訳読」は、英語教師たちの堕落を 固定し、「東大教授のお墨付き」を与えてしまう。それを批判してならないというのであれば、「大風呂敷」だの「語学論」だのに存在理由はありません。
 私は斎藤の「訳読」の持ち出し方は、学者の郷愁だと理解しています。学者の郷愁が「お墨付き」になる作用を批判しているのです。

>批判の対象が、自分の尊敬する人や自分のアイドルに対して向けられれば、根石さんから離れるでしょう。

 それは仕方がないことだと思っています。「離れるでしょう」ではなく、多くの人が「離れました」。素読舎の歴史というのは、ほとんどこれの繰り返しで す。残ってくれる人が残ってくれればいい。離れる人は離れればいい。避けることのできない論点というものはあるのです。それを避けて「共感点」だけ述べて いるような暇は私にはありません。

 斎藤は音の重要性を言うが、それをどう実現するかについては何も言えていない。つまり、柴田武史さんの授業や素読舎の存在について目が届いていない。
 また、訳読は媒介にして通過すべきものであり、通過した後は戻ってはならないということも言えていない。だから、斎藤の「訳読」を批判せず放置すれば、 必ず学校で訳読が固定される。その結果、英語を練習しているにもかかわらず、思考が日本語に回帰する。
 練習の「外側」で、思考が日本語に回帰するのは、日本語を主言語とする私たちには当然のことです。しかし、練習そのものにおいて、思考が日本語に回帰す る方法は固定されてはなりません。だから、斎藤の「お墨付き」は批判されなければなりません。

>『他の技芸についても言えることだが、子供のうちは、とにかく型を仕込んでおくのがいい。
小さいころに体で覚えた型というものは、大きくなってからかならず役に立つ。』164頁

 賛成です。

>『ただ、ここでも重要なのは、きちんとした先生について、しっかりと型の練習をするということ。
間違っても、英語教育の素人である親が毎日英語で話しかけるなどという馬鹿なことはやらないでいただきたい。』164頁

 賛成です。

>『日本人に一番合った英語学習法は、何と言っても素読、暗唱、文法学習、そして多読。
これが日本人が高度な英語力を身につけようとする場合、欠かすことのできない基礎訓練となる。』

 賛成です。

>『ところが最近になって、そのような日本の英語受容史、さらには語学の何たるか知らぬ役人や「有識者」が、小学校への英語の導入などを提案し、それを行 政的な実施へと導いてしまった。
もとより、小さいうちからコミュニケーションを通じて学べば英語がしゃべれるようになるという、何の根拠もない大衆の幻想に支えられて実現したような政策 だ。  <略>
一旦始めた以上、ここで引っ込みのつかない語学行政は、それが何とか効果を上げるまで執拗にその政策を
押し進めようとするだろう。 おそらく、次に考えるのは、小学校における「外国語(実質的に英語)」の必修化。それでも駄目なら、授業時間数を増やし、英 語教師を増やしていくのだろう。
一刻も早くこの政策を止めないかぎり、日本の英語教育は駄目になる。

 賛成です。

 吉さんがせっかく引用してくれたので、賛成の意見を書いておきます。しかし、私が書くべきことは、こんな賛成の意見ではないと思っています。語学論は商 売ではありませんので。

>とくに今は、素読舎フアンの塾生さんや、親の会の皆さんが、ホームページなどを作って、
盛り上げて行こうとまとまろうとしている時期じゃないですか (^▽^)/
そういう大切な時期に、根石さんの発言で生徒さんが減る状況ではサポーターが、ガッカリですよ〜。

 「行儀悪くがちがちと語学論をやること、ハードにやることは、それはそれで大事なことだから、やってくれ。私はソフトにやる。両方とも必要だから。」こ れが吉さんに言って欲しかったことです。
 サポーターをやめたくなったときは、どうぞおやめ下さい。

 らくださんとは語学論ではほとんどぶつかり合った気がしません。それよりも、高校1年の後半から「ほぼゼロからの出発」で英語を始めた者が、素読舎で方 法をつかみ名古屋大学に合格した事例をらくださんが「失敗例」呼ばわりしたことが決定的だったと思っています。進学校としては底辺校から、実質3年少し で、名古屋大学に合格したこの事例を、私は素読舎の歴史の中で最高の事例だと考えてきました。東大やら一橋やらに合格した事例もありますが、それらについ ては「うん、そうか」と思っただけです。私は今でも田中の名古屋大学合格が最高の事例だと思い、大切に思っています。田中が名古屋大学から京都大学の大学 院に進んだと聞いたときよりも、名古屋大学に合格した時の方がはるかに感動しました。めったに感動などしない私が感動しました。
 それを「失敗例」呼ばわりされたとき、何をこの苦労知らずが偉そうにものを言うんだと思いました。今でも、怒りがふつふつと湧いてきます。世の中の人は なかなかわかってくれませんが、私は「やられたらやり返す」だけです。実はおとなしい人間です。
 「失敗例」呼ばわりに対して、私は「管理職」呼ばわりしました。そしたら、村田君にメールが届き、「管理職」呼ばわりが「中傷」だとのことでした。自分 で「失敗例」呼ばわりをして「中傷」したことは何とも思っていないらしい。
 息子にレッスンをやめさせるということも、村田君にメールが届きました。レッスンをしていたのは、村田君ではなく私だ。私がじかに聞くべきことだ。実に 失礼であると思いました。かわいそうなのは息子だとも思いました。

>そうそう、ももこさんなんて、給料出して良いぐらいだと思いますよ〜〜。

 まったくその通りだと思います。
 ももこさん、申し訳ありません。



まずは著書を読んでから。
投稿者:Jackie 投稿日:2009年 8月23日(日)20時18分58秒 編集済
>朝日の記事程度だろうが何だろうが、公表されたものです。影響力のある人がおかしなことを言い始めたと思ったら、はっきりと言葉にして批判すべき だと考えています


新聞記事?インタビュー記事?の書いてることなんてあてにならないですよね?
真実がかいてあるわけではない。いくらでも偏向できるし、いくらでも作為できる。
テレビのひどい世論操作よりはマシですけど。

だいたい、日経新聞は経団連の提灯記事しかかかないし、
株式なんかじゃ、嵌め込みみたいな記事も書く。
新自由主義、グローバル主義、=善てな報道のスタンスで偏向している。

昔は日経新聞を高尚な新聞だとおもっていましたが、
日経よく読む馬○になる。だとこのごろは思ってます。
話半分、疑ってかかるように。

産経新聞は、小泉竹中よいしょしまくり新聞だし、
朝日、毎日読売だって、似たりよったり。

朝日新聞なんて郵政民営化のときに、「小泉カイカクはすごい」ともちあげてましたもの。
いまだって、地方分権しなきゃ!ってなかんじでしょ?市町村合併で地方がどうなったかを考えれば、今、猪瀬さんや竹中さんや経団連や自民党のいう地方分権 改革をすすめたら、地方が崩壊することは目にみえています。
でも実は改悪なのに、「郵政民営化カイカク」といいかえて、国民を欺いた、マスコミと政府。あの小泉熱狂を盛り上げ、つくりあげていたのはマスコミなの に、
今はしらっと「国民が熱狂していた小泉」とマスコミ自体は責任がなかったように
しらーっとしています。
マスコミはいまだ反省することなく、「地方主権!のための分権カイカク」をもちあげ。
「地方分権からすべてがはじまる、地方主権で未来が開ける」てな調子の新聞テレビですけど、、
たぶんそれは実は国民にとって「カイアク」なのです。


らくださんのおっしゃるとおり
「朝日の記事程度」
新聞なんて、そんなものです。
根石さんだって、実は新聞なんてくそ食らえとおもってらっしゃるはずです。



だから、今回の斉藤さんへのインタビュー記事も
インタビューに答えたなかで、記者が感じた都合のよいところだけ、ピックアップしたのかもしれませんし、斉藤さんがいった一言一句がそのままのっているわ けではない。

新聞なんて鵜呑みにしちゃ、だめだめ。
政府などにとって都合のよいこと、もしくは国民世論を誘導したいときは、一面トップででっかい記事で書き、政府に都合の悪い指数とかは、新聞の片隅に小さ い記事で書かれる。

まずは著書を読んでから批評批判をしてください、根石さん。




>また、訳読は媒介にして通過すべきものであり、通過した後は戻ってはならないということも言えていない。だから、斎藤の「訳読」を批判せず放置すれば、 必ず学校で訳読が固定される。その結果、英語を練習しているにもかかわらず、思考が日本語に回帰する。


>斎藤は音の重要性を言うが、それをどう実現するかについては何も言えていない。つまり、柴田武史さんの授業や素読舎の存在について目が届いていない。
 また、訳読は媒介にして通過すべきものであり、通過した後は戻ってはならないということも言えていない


著書を読んだら、これらについてもっと詳しく書いてあるかもしれませんし・・。



語学本コレクターの私としては(笑)2冊ほど持ってます〜。
でも読み流しなので、
私もしっかり読み直してみようかと思っています。
はてさてどこにあったかな。

斉藤さんと根石さんの共通点と、違う点について、書くとしたらそれからにします。
ただ、記憶をたどるかぎり、主張は根石さんと似ていたと思います。



らくださん、根石さんへ
投稿者:Jackie 投稿日:2009年 8月23日(日)20時32分58秒 編集済
らくださんは語学関係本の方みたいですし、
いっそのこと
「語学論:根石吉久、VS斎藤 兆史」なんて本を企画してくださらないでしょうか?

どうでしょ、らくださん。
編集はらくださんで。

お互い憤慨中なのだと思いますが
これも「目標としていたこと」の行き違いの面もある。




うーん、いまいち状況がつかめないのですが。

らくださんは「京大から名古屋大に志望校をさげたということは失敗ではないか」。
根石さんは
「その高校から名古屋大に入るということは成功であり、失敗呼ばわりされる覚えはない」とおもった。

しかし田中さんが、京大を目指していたことには、偏差値的に、まだ無理があったというわけでは?

英語ゼロの状態から名古屋大にはいったことを、らくださんは「失敗だ」とは言っていないですし。

基本は死なない英語作りが元にある。
受験で死なない英語。
http://f44.aaa.livedoor.jp/~sodoku/sodokusy/yousetu.htm


>こういった英文を読みこなし和訳する力を付ける過程で、「訳読」の訓練は一切不要である、と納得させてくれる学習の道筋(教材とその学習の仕方) が示されれば良いと思っています。

音作りと直結させ、受験英語で英語の太い幹をつくる、それをベースに
しかしまた、大学それぞれの入試問題により、和訳重視なところや英作重視なところ、穴埋め?重視なところとありますし、素読一本でではなく、オールマイ ティーな勉強はやはり必要でしょう。ある時期は細かい分析をすることも、ある時期はしっかりと文法をもとにした訳をしていくことも、将来国際的に活躍した いのなら、英文をきちんと日本語に訳せることも必要ですし和文を英訳することも必要ですから。
これら勉強だって、やり方次第で、死なない英語のベースにはなるでしょう。

、受験生は英語だけでなく、その他の教科も勉強しなければなりませんから、
まずは、すらすら読めることを基本として、構文理解。そして、その他はその受験校の傾向にあわせてオプションで学ぶこと。

「(素読舎)これ一本で全部すんじゃう」というわけにはいかず、各自の勉学と平行させていく。



そう、本作り


論争、対決は、本作りのなかで、
徹底に意見を戦わせるということで。

一冊つくりあげてみるというのはいかがでしょう。

本作りは
かなりの体力気力根気、論戦になると思いますが。


さあ、はっきょい、のこった!



田中さんについて質問です。
投稿者:ももこ 投稿日:2009年 8月23日(日)23時45分2秒
田中君の通っていらした高校は私にはまったくどんな高校かわからないので検索かけて偏差値と高校HPの進学実績を見てみました。(というのも、高校で英語 をほぼゼロからやるとはどういうことなのだろう・・・。入試はどうしたの??という疑問があって・・・。)

びっくりしました。進学校・・・・。私の中の偏見かもしれませんが学年のほとんどが4年生大学に進む高校を進学校だと思っていたので、偏差値・進学実績だ けで見てはいけないのかもしれませんが、この偏差値の公立高校から国立大学!!うひょ〜〜と思いました。

田中さんは英語はその状態からのスタートだというのはわかったのですが、ほかの教科の学習はどのようにしていたのでしょうか?英語以外は抜群にできる方 だったのですか?素読舎では英語についてのみ教えていらしたのですか?

それにしても、その偏差値の学校なら志望校の受験対策も十分にしてもらえないと思うのでホントに努力したんだろうなぁと思います。

もしお時間があれば伺いたいです。



「朝日の記事程度」
投稿者:江戸の母 投稿日:2009年 8月24日(月)03時32分1秒
すみません。私がこのことを書いてしまったせいで、いろいろと波風がたってしまって、
被害がでてしまっていることに申し訳ありません(汗)

確かに、Jackieさんのおっしゃるとおり、「朝日の記事程度」のコメントはごもっともで!!新聞につられちゃいけない!マスコミに踊らされちゃいけな い!たくさん情報を取り寄せて読まなくちゃと、改めて自戒した次第です。実際、「民営化」についても、批判してはいけないという編集コードが引かれていて 今はそれが解除になっていると、最近知りとてもショックでした。「世の中の流れ」を作っているのは、誰か?どことどこが手を結び情報(お金の流れ)を操作 してるのか?おかげで、「裏」を読む癖がつきました^^

今回、朝日日曜版というメジャーな場所に文科省「学校の英語」が推進している「コミュニケーション中心主義」批判が書かれてるのが珍しいなと思い書き込み した次第でして、自治体でのネイティブ教師にかける予算が確実に増えている中、これに疑問を持つ人も皆無と思います。私は変わり者〜少しでもこの記事を通 じて「これから学校でやろうとしている英語教育はどう変わるのか?」と興味をもつ方が増えると、いいなと思います。

『日本語力と英語力』斉藤孝+斉藤兆史での引用を長くなりますが・・・

斉藤兆史
「ところが、行政が素人のレベルに乗っかっているのですからね。英語教育の場合、さらに悪いことに、一般の人たちの幻想を吸い上げ、それを力にして勢力を 強めてきた英語教育学者がその手伝いをしています。コミュニケーション中心主義を叫ぶ人たちですね。文科省にしてみれば、専門家がついているという安心感 がある。私など、そういう相手に向かって「それは違う」といい続けているわけで、日本語教育の世界よりも手ごわいです。

「私に言わせれば、日本語と英語との構造的な差異もわきまえず、日本の風土も理解しない欧米の学者が開発した音声中心の「実践的な」言葉を奨励したあげ く、ピジン英語話者を大量生産し、その一方で表現のニュアンスを生かして政治や文化を語ったり、高度な議論を展開するのには、使えない、そんな英語を学習 することが「科学的」とはとても思えないのです。まして、そこに国際舞台で通用する英語力の育成を求めるなど、ちぐはぐな感が否めません。」

引用終わり

このあと、この章は新聞と同じく、学校でできることは「個々人が必要に応じて学習を積み重ねていけるように基礎力を」で結ばれており、途中には、編者によ る斉藤孝の「声に出して読みたい日本語」の紹介、子供の頃からの音読、暗誦がコラムでも紹介されています。

私は自分の経験で正真正銘の「訳読育ち」といっても過言ではないかも!?ですね。授業で発音のことに触れたことはないし、LL教室が導入され始めた頃なの で、聞く練習はしましたが話す練習は一切なし。もっぱらグラマーの授業以外は、先生もしくは生徒が英文を読み、訳す授業。

今、文法無視でとにかく英語になれるための授業、ネイティブ教師導入による挨拶、体の一部や色を学んだり、チャンツ等(または学校教師たちによる日常生活 における英語での挨拶導入(汗))には、果たして一体どんな効果があるのか、時間とお金の無駄ではないか?日本語はどうなるの?と疑問を払拭しきれないで おりますが、だからといって、斉藤兆史氏が私が通ってきた「訳読・文法」中心の授業に戻れというのであれば、多いに疑問です。ここは根石さんに指摘され て、あっと思いました。斉藤兆史氏が、学校において私が受けてきた授業の型だけでよいというのであれば、本当に「のべつまくなし、のんべんだらりん体制」 を助長する存在になってしまいますね。文科省の中途半端なコミュニケーション主義の先を行く、本当に「コミュニケーションできる能力」として必要な基礎固 めという点で、「音」はどうからめていくのか?斉藤氏に聞いてみたいなと思ってますデス(著作でもう、展開されているかもしれないですね。もし皆さん、 ご存知でしたら教えてください)

掲示板でのすべての引用urlを読むには、頭がおいつかないのですが、
つくづく「言葉を取得する」ということについて、考えさせられてて・・・
なぜか、私の頭の中に漫画『ガラスの仮面』で、北島マヤなる主人公がヘレンケラーを演じていた時の「WATER」をサリバン先生に教えてもらうシーンと 『アルプスの少女ハイジ』でクララが立ち上がるシーンがリピートされています^^




Jackie さん
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月24日(月)11時14分7秒 編集済
>まずは著書を読んでから批評批判をしてください、根石さん。

そうですね。
そうします。

「朝日新聞の記事程度」については、どうでしょうか。
記事の「案」が事前に斎藤に届いていたのであれば、あの記事の斎藤の発言内容については、斎藤に責任があります。



ももこさん
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月24日(月)11時43分52秒 編集済
>びっくりしました。進学校・・・・。私の中の偏見かもしれませんが学年のほとんどが4年生大学に進む高校を進学校だと思っていたので、偏差値・進学実績 だけで見てはいけないのかもしれませんが、この偏差値の公立高校から国立大学!!うひょ〜〜と思いました。

 田中は、理科、数学は得意でした。これは私の憶測ですが、田中が長野南高校に合格したときは、国語、英語、社会の低得点を理科、数学でカバーしたと考え ています。田中は高校受験時は素読舎を使っておらず、高校一年の後半に素読舎に入塾しました。英語は、文字通り「ほぼゼロからのスタート」でした。

>田中さんは英語はその状態からのスタートだというのはわかったのですが、ほかの教科の学習はどのようにしていたのでしょうか?英語以外は抜群にできる方 だったのですか?素読舎では英語についてのみ教えていらしたのですか?

 素読舎では英語だけです。素読舎では当時、(受験用の)国語というより、「日本語素読」と呼ぶべき練習を無料で行っていたようです。私が、田中にやって みないかと誘ったけれど、田中がやらなかったということがあったようです。私はその辺は忘れておりました。村田君が作ったインタビュー記事を読んで、そう だったかなあと思ったくらいに忘れていました。
 田中から国語の点がどうしても伸びないと聞いて、私が「国語はほったらかせ」と言ったことは覚えています。
 田中は素読舎で英語をやっただけで、他の科目は自宅浪人でやったように覚えていますが、これも確かではありません。(田中がこの掲示板を読んでいたら、 書いてくれるといいのですが・・・)
 数学や物理(?)も、自分で激しく練習しました。その辺は、インタビュー記事で推測できます。こっちは、通常の受験生がやることをやればいいし、得意科 目でもあったので、特別に「素読舎の技術」は要らない範囲でした。



江戸の母さん
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月24日(月)12時02分43秒
>『日本語力と英語力』斉藤孝+斉藤兆史での引用を長くなりますが・・・

>>斉藤兆史
「ところが、行政が素人のレベルに乗っかっているのですからね。英語教育の場合、さらに悪いことに、一般の人たちの幻想を吸い上げ、それを力にして勢力を 強めてきた英語教育学者がその手伝いをしています。コミュニケーション中心主義を叫ぶ人たちですね。文科省にしてみれば、専門家がついているという安心感 がある。私など、そういう相手に向かって「それは違う」といい続けているわけで、日本語教育の世界よりも手ごわいです。

>>「私に言わせれば、日本語と英語との構造的な差異もわきまえず、日本の風土も理解しない欧米の学者が開発した音声中心の「実践的な」言葉を奨励したあ げく、ピジン英語話者を大量生産し、その一方で表現のニュアンスを生かして政治や文化を語ったり、高度な議論を展開するのには、使えない、そんな英語を学 習することが「科学的」とはとても思えないのです。まして、そこに国際舞台で通用する英語力の育成を求めるなど、ちぐはぐな感が否めません。」

 スカイプを使って、日本語の素読をやる会を発足させようじゃないかと提案し、教材のデータを蓄積するためのフォームを決めたりもしましたが、頓挫してい ます。こういうものを、蓄積していけばいい「勉強会」ができるはずだと思っています。

 素読舎は本当に昔から喧嘩ばかりしてきました。特に、町の有力者の奥さんなんかとまともにやると、塾に生徒が来なくなります。地元相手で閑古鳥が鳴いた ので、「電話(スカイプ)でレッスン」を始めたという経緯もあります。
 今回は私が「ふざけんじゃねえぞ」と思ったことで、らくださんが離れました。電話やスカイプでのレッスンでは初めてのことでした。



根石さんへ
投稿者:吉 投稿日:2009年 8月24日(月)22時04分59秒 編集済
> 批判というものに対する考えが、吉さんと私とでは非常に違うのだということが改めて確認できました。

今の僕は発言の起点を、「仲間作り」においてますので、どうしても相容れないことがあろうかと思います。
根石さんがスタイルを変えるとは思っておりませんが、今後も私から同じような発言があると思います。
その時は、「またか」と思ってください。
それによって根石さんにはエネルギーを使わせて申しわけなく思いますが、
今回のような根石さんの詳しい論拠の加筆は必要だと改めて感じました。

根石さんの怒りもわかりますが、らくださんがいなくなったのは正直悲しいと思っているのです。
過去ログを読むと、僕が去った後、親の会の中心的存在として、彼の立ち回りは、非常に大きなものがありました。
根石さんの言い分は読みました。 しかし、なぜそうなってしまったか、残念でしかたがありません。
過去の自分と気持ちが重なるということもあります。

らくださん、、、気持ちが落ち着きましたら戻ってきてください。

>> 避けることのできない論点というものはあるのです。
>> それを避けて「共感点」だけ述べているような暇は私にはありません。

よくわかります。 批判をするなとは言いません。 しかし、もしもできるのであれば、
わずかな行でも共感点から書いてくださったうえで、批判に移行されることをおすすめしたいです。
最初に共感から入ると、後半の批判が(他人の頭に)浸透しやすくなるのです。

>「行儀悪くがちがちと語学論をやること、ハードにやることは、それはそれで大事なことだから、
> やってくれ。私はソフトにやる。両方とも必要だから。」
> これが吉さんに言って欲しかったことです。

この根石さんの気持ちは、わかります。

> 私は斎藤の「訳読」の持ち出し方は、学者の郷愁だと理解しています。

あいかわらず見事な表現としか言いようがありません。
私も同じように考えておりましたが、「郷愁」というハマル言葉をよくみつけますね。 (^^)

> サポーターをやめたくなったときは、どうぞおやめ下さい。

では、その時がきましたら、、。 (^^ゞ
しかし、まだビールを一緒に飲んでいませんよ。
それに、僕のホームページを読んで根石さんにつながってくださった人達に、
きちんと感謝を伝えきれておりません。  語学は、こういう人との別れではないです。
根石さんから語学の魅力ももっと引き出して、語ってもらいたいとも思っています。



吉さん
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月25日(火)00時47分10秒
了解です。



一言だけ追加
投稿者:根石吉久 投稿日:2009年 8月25日(火)01時00分35秒
>根石さんの言い分は読みました。 しかし、なぜそうなってしまったか、残念でしかたがありません。

 この掲示板にほとんど書くことがないが、ずっと読んでいる人の観察では、こばたま事件以後、らくださんのもの言いが変わったとのことでした。
 らくださんは、英語関係の出版の仕事をされていますが、その母体は学校で、こばたまとは規模が違うにせよ、まあ、ご同業と言っていいのかもしれません。 私には、英語回りの仕事で本当に嫌悪している仕事というものがあります。こばたまのやっていることもそうです。
 英語回りというより、コミュニケーション主義回りと言ったらいいのかもしれませんが、その種の仕事は決して私とはご同業だと思いません。そんなもんとご 同業扱いされたらたまったものじゃない。

 こばたまはやはり私が遊郭呼ばわりした通り、災厄をもたらしたようです。
 レッスンから、Jackie さんが離れ、らくださんの息子さんが離れました。
 私は、らくださんが離れたことより、らくださんの息子さんが離れたことが何倍も悲しいです。


わだかまり
 投稿者:根石吉久  投稿日:2009年 9月 9日(水)05時31分59秒    
       斎藤兆史批判の際、「朝日新聞の記事ごとき」という考えをらくださんと Jackie さんが言われたことについて、いまだわだかまっています。
 らくださんは、斎藤が大枠で正しい、いい論者だと言われたのだと思っています。吉さんも、斎藤の言っていることは、素読舎にとって追い風だよと忠告して 下さったのだと思います。
 それについては私も大枠で賛成なのです。だけど、「訳読」を持ち出した時の、斎藤の持ち出し方が許せない。こんなものをそのままに放置したら、とんでも ないことなのだ。
 斎藤の論は、学校の先生たちが、水戸黄門のご印籠みたいにしてしまう可能性は十分に大きい。近代日本の英語受容歴の専門家であり、東大教授であるので、 この人の言うことなら間違いないだろうと思う怠惰な学校教師は非常に多いはずなのである。さすが東大! 学校教師たちの堕落に責任がある大学の、さすが教 授! おめえさまの言ったことは、教師どもの堕落の容認なのだ。

 在野からはっきり言わせてもらう。斎藤の「訳読」はきちんと蹴飛ばさないと駄目なのだ。

  Jackie さんは本をちゃんと読んでからものを言えと言ったのでした。これに対してのわだかまりが強くあります。Jackie さんにつっかかる気がしなかったので、「そうします」(本を読んでみます)と返答しましたが、いまだ本を読んでいません。今月、下道で車中泊を重ね、土佐 まで友達に会いにいく予定があるので、その行き帰りに斎藤の本を読もうと計画しています。(吉さんが買われた本は何というタイトルでしたっけ?少し前の記 事を読むのも面倒なほど疲れてしまっているので、教えていただけるとありがたい。)

 やっぱり、本を読んでからものをいわなければいけないなどという義理は誰にもどこにもないと思うのです。どんな小さな切れっ端の記事であろうと、斎藤の 名前が出ている記事なら、記事内容について斎藤に責任があります。どんな切れっ端であろうと、ただその切れっ端だけを読んで、誰でも斎藤の論に自由にもの を言っていい。それが斎藤に届くかどうかは別問題であり、私は斎藤に届けたいと思う以前に、不特定多数の「大風呂敷」の読者に届けたかった。偉い人がこん な馬鹿なことを言い出しているぞと知らせたかった。

 インタビュー記事であろうがなかろうが、あるいはインタビューを受けて、斎藤が記者に「後は全部まかせるから」と言ったのであろうがなかろうが、記事内 容に関しては斎藤に責任があり、その責任が保持されている限りは、どんな小さな切れっ端であろうと、誰がどのように論評することも自由だ。
 もし、斎藤が「あれはさ、インタビューってもんだから、あんまり責任を云々されても困る」程度のことを言う者である場合は、「この甘ったれが、二度とイ ンタビューなんてもので自分の考えを言おうと思うんじゃねえぞ」と言えばいい。それが言論というものだ。
 Jackie さんは、(マスコミ)メディアに対する認識に甘いものがあります。ああいうものを放置すると、時代は今後、確実にますますいけなくなっていきます。

 さてと、言いたいことだけは言っておこう。再度お断りするが、私は斎藤の本はまだ一冊も読んでいない。手元にあるのは、江戸の母さんがコピーして送って くれた朝日新聞の記事だけである。この時点で言いたいことを言ってしまわないと、本を買う気にもなれない。このまま本を読む気にはどうしてもなれない。切 れっ端だけを読んだ時点での、言いたいことというものがあり、それはその時点で言わないと駄目なのだ。

>日本人が明治から現在まで、話したり聞いたりするのは下手なのに、なぜ文学作品や自然科学の論文など知的に高度な英語を読めると思いますか。これは訳読 という優れたシステムのおかげです。not only...but also とあれば、「こればかりでなく、これこれも」と置き換える。関係代名詞がくれば、「これこれするところのこれこれ」だよ、と。訳読は、短期間に効率的に読 解力を伸ばす非常に有効な方法です。英米人にも高度な英文を、日本人が数年の学習で読めるようになる。話す聞くだけでこのレベルに達することが出来るで しょうか。

 「知的に高度な英語を読める」ことが衰えるなら大問題だ。ピジンイングリッシュで小学生や中学生が英語をしゃべることなんかより、「知的に高度な英語を 読める」ことのほうがずっと大切だ。英会話重視の小学生英語も中学生英語も、「知的に高度な英語を読める」ことを衰退させる大衆のよこしまな迷信である。
 この主張には文句はありません。このこと自体はまったくその通りなのです。さすが東大教授だ、「知的に高度」を大事にするところなど、半分は学者として の我田引水であり、残りの半分の半分くらいは国士だ。国力を心配しているのだ。それでも、言っていることは、他の英語回りの馬鹿と比べれば、格段にまとも であり、それだけなら大枠で文句はない。

 ところがですねえ、私の生徒には、「知的に高度な英語を読める」ことを大事にしてる暇がない生徒もいるのです。一部上場の大手電機会社の社員の方です が、この人が必要としているのは、自分の体を飛行機に乗せて、空港を降りたらすぐに、別の会社の人とめんどうな交渉を始めることです。
 この人はかつて富士通の社員で、私のレッスンを受け始める前は、富士通とファナックの社員を対象とした英会話教室に長年通っていました。その間、出張で 海外に出ても頭が英語回路に切り替わるのに三日くらいかかったとのことでした。つまり、3日はほぼ仕事にならなかったのです。私のレッスンを始めて1年く らいしたとき、「なんだか不思議な感じがするけど、このごろは飛行機を降りたその日から仕事ができる」と言われました。
 こういうところを生きなければならない日本人にとって、「知的に高度な英語を読める」学者みたいなことは、ひとまずやってる暇がない。本人が好きでやり たければやるでしょうが、「知的に高度な英語を読める」ようなところに、自分の死活問題はない。そんなところに必要な英語があるのではない。学者じゃない んだから、「知的に高度」ばっかしやってられない。

 ところがですねえ、文部科学省がやろうとしている英会話重視は、ピジンイングリッシュすら成立させないという問題があるのです。Hello. を言い、Thank you. を言う、その二つしか言わない場合でも、「英語をしゃべっている」ということは成り立つ。Hello. も Thank you. も英語の言い回し以外の何でもないのだから、「英語をしゃべっている」ということは成り立ってしまう。学校英語の英会話重視は、本質的には、それをやれる だけだ。たんなる決まり文句の挨拶をまるごと言っているにすぎなくて、ピジンイングリッシュとすら言えない。飛行機を降りても、別の会社の人とめんどうな 交渉を始めることなどできるわけがない。
 文部科学省が量産しようとしているのは、「ピジンイングリッシュとすら言えない英語」であるのは間違いない。これに対しては、過去ログをお読みいただけ ばわかりますが、私も斎藤に劣らず強い批判を持っています。

 斎藤は記事の他のところで、ピジンイングリッシュを馬鹿にしている。しかし、斎藤が馬鹿にするピジンイングリッシュというものは、相当に闊達なものなの だということが斎藤の論からすっぽり抜け落ちる。その闊達さが成立するのは、英語にとっての異言語空間(英語にとっての異言語磁場)の中に、どんなに小さ くても「(疑似)英語磁場」が成立している場合に限るということがすっぽり抜け落ちる。ピジンイングリッシュでなくまともな英語について言うなら、斎藤が まともな英語をどれほど闊達にしゃべろうが、それを実現したものが、「米インディアナ大大学院修士課程修了、英ノッティンガム大大学院博士課程修了」のせ い、つまり、「磁場で英語を使う期間を持った」せいだということがすっぽり抜け落ちる。

 斎藤がまともな英語を闊達にしゃべることを実現したのは「磁場」である。その元にあったのが、斎藤のお受験を主とし、お受験を終えても続けた「日本での 練習」であることは間違いない。斎藤の「闊達さ」の元にあるのは、「日本での練習」であるが、それは元にあるだけだ。「闊達さ」に直接に作用したのは、 「英語磁場」以外の何物でもないとはっきり言わない。これをはっきり言わないのは、國弘正雄にも同様にあてはまる。「闊達さ」自体に文句はないが、それが 実現する過程の自覚がない、あるいは自覚があってもそれを伏せている。そこに文句がある。

 ピジンイングリッシュを馬鹿にする前に、「訳読を抜け出す」方法をきちんと言わないといけないはずなのである。「訳読」を礼賛するならするでいいが、そ れと同時に「訳読を抜け出す」方法を言わなければ、冗談めかして、「今は否定的な人が増えていますね。「訳毒」と呼んだり。(笑い)」の「訳毒」に手を貸 すだけになる。
 「訳読」が優れたシステムだと言う前に、というより、それを言うと同時に、「訳読を抜け出す」方法を言わなければ、怠惰な学校教師たちを怠惰なままに固 定することになる。その政治的(?)作用を斎藤が担ってしまうことになる。そのことに対する警戒心がまるでない。やはり、東大教授など続けて、本など売れ ると、考えがなまるのだとしか考えようがない。
 素読舎用語で言えば、「磁場」に対する観点がないこと。「訳読を抜け出す」方法を言わないで「訳読礼賛」などやってしまっていること。これが批判点なの である。

 斎藤の論が粗雑であることの例は、引用したところにきちんと含まれている。もう一度引用してみる。

>日本人が明治から現在まで、話したり聞いたりするのは下手なのに、なぜ文学作品や自然科学の論文など知的に高度な英語を読めると思いますか。これは訳読 という優れたシステムのおかげです。not only...but also とあれば、「こればかりでなく、これこれも」と置き換える。関係代名詞がくれば、「これこれするところのこれこれ」だよ、と。訳読は、短期間に効率的に読 解力を伸ばす非常に有効な方法です。英米人にも高度な英文を、日本人が数年の学習で読めるようになる。話す聞くだけでこのレベルに達することが出来るで しょうか。

 not only...but also に「こればかりでなく、これこれも」と対応させ、文の意味をとれるようにするのが、「訳読」の「優れたシステム」だと言っているが、そんな馬鹿なことはな い。「訳読」でなくても、こんな「対応」はどこででも使う。文法問題を解くのにも使うし、私が作る教材の中にでも、こんな「対応」はごろごろしている。本 質的には、たんなる「対応」関係にすぎない。だから、「りんご  apple」の対応関係と何も変わりはない。こんなものは「訳読」がすぐれたシステムだということの根拠にはとうていならない。

 言うのであれば、「一時期『訳読』は必要である」と言うべきである。必要な期間においては、「訳読」も優れたシステムである。つまり、「訳読を抜け出 す」前の段階では、「日本語を媒介にする」ことは必要である、と言うべきである。

 手放しに「訳読」を「優れたシステム」などと言った時点で、馬脚が現れてしまったのだ。

 not only...but also とあれば、「こればかりでなく、これこれも」と置き換えることを抜け出して、not only も but also もイメージと一体化し、日本語が動かなくてもイメージが動くレベルになってようやく、「知的に高度な英語」を読めるようになる。そうなる前に、「日本語を 媒介にする」ということは必要なのだと言えて、ようやく語学論のレベルになる。
 私はただ単に斎藤のケチをつけたくて批判しているのではない。斎藤の論が語学論の「知的で高度な」レベルに達していないから、東大教授駄目じゃん、と 言っているにすぎない。

 ただの「対応」関係を持ち出して、「訳読」を「優れたシステム」だなどと言うことが、愚劣で怠惰な高校英語教師たちを放置し容認してしまう。そのイデオ ロギーとしての政治的(?)作用を野放しにする。それに無自覚なことを批判しているのである。

 さて、本を買ってみるか。      



吉さん
 投稿者:根石吉久  投稿日:2009年 9月13日(日)03時03分4秒    
   本をありがとうございました。今日届き、斎藤兆史の「日本人に一番合った英語学習法」の方は読み終えました。
 語学の方法についての感想は、朝日新聞のインタビュー記事を読んだときと同じでした。英会話重視の風潮に対する批判には、まったく賛成です。
 素読、暗唱、文法でしたっけかね。斎藤が対置して、推奨する方法は。その一つ一つの言葉の柄が大きくて、結局具体的でない。
 素読がいいと言うが、素読をどう使うかについてはほとんど何も書いてない。暗唱が、素読の結果として自然に獲得されるものなのか、暗記として強制される ものなのか、何の区別もなされていない。この二つはまったく別の原理によるものなのですが、大事な区別がない。
 「訳読」については、この本では南方熊楠について触れたところに出てきました。つまり、この本では、「訳読」は学校の授業形態としての「訳読」ではなく て、熊楠の「自分でやる練習」なのです。斎藤においては、そこの区別もまるでなされていない。教師のおさぼりを放置し許容する「訳読」と、学校嫌いの熊楠 が一人でやった「訳読」はまるで違うものですが、そこが区別されていない。
 朝日新聞の記事では、学校がやる英会話重視に対置して「訳読」を持ち出しています。普通に読めば、学校がやる「訳読」と読めるし、実際に、斎藤は近代の 学校がやってきた伝統的方法を肯定する文脈において「訳読」を持ち出していると思います。そこですね。私が、ふざけんじゃねえよこのやろ、と思ったところ は。本を一冊読んでみた時点では、この批判点には何の変更も要りませんでした。
 「暗唱」にせよ、「訳読」にせよ、概念がとてつもなくあいまいなのです。素読の結果として自然にできるようになってしまった「暗唱」と、学校の宿題で出 されて(柴田武史さんの教室でのように)強制されるものとしての「暗唱」とでは、それぞれが成立する原理そのものが違います。覚えるということを強いる要 素があるかないかというところでまったく別物になるのですが、結果だけ見れば、同じ「暗唱」に見えます。
 同じことが、「訳読」についても言えます。教師のおさぼりに役立つ「訳読」と、熊楠がやった「訳読」は、水と油くらいに違います。それも、東大教授の高 みから見れば同じ「訳読」に見えるのでしょう。斎藤は、現場ってものを知らないのです。知っている現場は、「学校の教室」だけです。センセイってのは、学 校を出て学校に入っちゃうんだからどうしようもねえや。高みってものに実に無自覚です。

 口当たりのいい文章ですので、こういう本の方が売れるのはよくわかります。しかし、片っ端から微分する必要のあるもの言いばかりです。

 この本が面白かったのは、まったく別のところにあります。
 津田梅子が六歳でアメリカに留学させられたというようなむちゃくちゃなことを書いてある。それは知らなかったので、そういうところが一番面白かった。人 はどう考えるのか知りませんが、実に無惨なことが書いてあります。伊藤博文なんぞは、ろくにわかってもいないくせにわかったような見栄を張った、とは書い てないが、そう読めるところが面白い。口あたりのいいところを、ちゃんと言い直すと「見栄っぱり伊藤博文」になり、小泉純一郎なんぞにつながる系譜になり ます。
 同じ小泉でも、小泉八雲の奥さんの手紙の日本語や、八雲自身の日本語の手紙の文など、実にいいのですが、斎藤はこれをピジンだとして見下すのでした。や はり東大教授なんかやってると馬鹿になるのは避けられないのかとため息が出ました。



根石さんの読後感想を読ませてもらいました
 投稿者:吉  投稿日:2009年 9月13日(日)06時58分15秒     編集済
      > 本をありがとうございました。今日届き、斎藤兆史の「日本人に一番合った英語学習法」の方は読み終えました。

はやっ!! ( ̄□ ̄;) ギョ
大風呂敷に引用するために、線を引いた個所が沢山あって読みにくかったのではなないかと思います。
通勤カバンの中に、たまたま太目の赤ペンしか入っていなかったのです。
ブックオフに持って行っても、買い取ってくれないと思います。 ゴメンナサイ。

> 語学の方法についての感想は、朝日新聞のインタビュー記事を読んだときと同じでした。
> 英会話重視の風潮に対する批判には、まったく賛成です。

賛成部分があって良かったです〜。
ああいう批判をしてくれる人が圧倒的に少ないので、僕はそこを読んで元気をもらいました!

> 素読、暗唱、文法でしたっけかね。斎藤が対置して、推奨する方法は。その一つ一つの言葉の柄が大きくて、結局具体的でない。

そうなんですよ〜〜。 でも、、斎藤さんの本を読んだ人が、「英語と素読」の二つのキーワードで検索した時、
根石さんの素読舎に「つながる」のではないかと考えていたのです。 ここ素読舎には具体的な方法がありますからね。

> この本が面白かったのは、まったく別のところにあります。
> 津田梅子が六歳でアメリカに留学させられたというようなむちゃくちゃなことを書いてある。
> それは知らなかったので、そういうところが一番面白かった。人はどう考えるのか知りませんが、実に無惨なことが書いてあります。
> 伊藤博文なんぞは、ろくにわかってもいないくせにわかったような見栄を張った、とは書いてないが、そう読めるところが面白い。
> 口あたりのいいところを、ちゃんと言い直すと「見栄っぱり伊藤博文」になり、小泉純一郎なんぞにつながる系譜になります。

いやいや、よく調べてますよね〜。 さすが大学教授なんだな〜と思いました。
僕には、そういう探究心や調査力がないので、その部分では尊敬するばかりでした。

> 同じ小泉でも、小泉八雲の奥さんの手紙の日本語や、八雲自身の日本語の手紙の文など、
> 実にいいのですが、斎藤はこれをピジンだとして見下すのでした。
> やはり東大教授なんかやってると馬鹿になるのは避けられないのかとため息が出ました。

しかし、根石さんの本の読み方は、つくづく面白い。
俺からは、そういうため息は出ませんでしたから、、、ナハハハ、、。
読んでくださってありがとうございました。 また丁寧な読後感想を書いてくださってありがとうございました。

話は変わりますが、英語関連の本で、僕の中の語学論に共鳴する本は、ほとんど見当たりません。
語学論は、英語関連の著書以外のところに落ちていることが多いと感じます。 (^^;;

今の私の気持ちが、鈴木大拙さんの言葉とリンクしましたので、紹介させてください。
(毎回、引用元を探すのに苦労します、、ふ〜っ)  えっと、、ブッダの教えだそうです。

"Don't believe in me just because I have a little more experience than you.
Don't believe what I say to you for that reason.  Believe in yourself!"

Daisetz T, Suzuki On Zen Philosophy
「大拙 禅を語る」18頁より

"In the end it comes to your self."  by Daisetsu Suzuki

僕は権威の言葉を信じやすい傾向にありますんで、、、(;^_^A アセアセ・・・